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和船(その歴史)

厚ぼったい上下2巻の本を図書館で発見。  というか、昔、読んで途中で放棄した記憶が、、、

「和船」 Ⅰ巻、ⅱ巻   石井謙治著  法政大学出版局発行
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表紙のデザインが何を意味するのか?分からない。

何で放棄したかというと、内容が海事、造船の関係者、船の歴史研究者向けなのだ。
私もかってはアマチュアヨットマンであり、ヨットの自作までやった船マニアの端くれであるが、
それでも専門的用語が飛び交う。
更には、、、、大正生まれの著者が駆使する「古語」「漢語}がツライ。
なにしろ話が古今和歌集、遣唐使船、壇ノ浦の戦い、信長の軍船、朝鮮出兵での海戦、
徳川300年、幕末、明治政府と、ものすごく長大だ。

だがこの本は和船のバイブルとして権威を持ったものであることは間違いない。
特に、文中で度々、同業の研究者をケナシているのがその証拠である。
更には、、、天下のNHKテレビが、リアルタイム・ドキュメンタリーで放映した
「北前船の復元と航海」までもボロクソに批判している。ある意味、痛快な文章である。
著者は、この業界では恐るるものなしの「ドン」なのかも?

この本で言う「和船」とは、、、、
年賀状に描かれる宝船、葛飾北斎、安藤広重の浮世絵版画に描かれた「弁材船」である。
ナニソレ?  千石船、樽前船、北前船、北国船、、なら知ってるけど?
いや、これらは用途と航路、細部仕様が異なるだけで呼び名が違うが、全て「弁材船」なのだ。

第1巻は、「弁材船がいかに優秀だったか」の礼賛に終始している。
1.櫓や櫂(ロ、カイ)を使わずにほとんど帆走でこなした。
2.オープンボート(水密甲板が無い)なので荷役が簡単、軽い貨物は高く積み上げた。
3.引上げ式の舵板を採用。荷役のため、避難のため、どこの浅い港でも砂浜でも入れた。
  平底なので引き潮になっても転倒しない。船底を掃除出来た。
  舵板の面積を巨大にしたので、「間切り」(ジグザグに風に向かう)回転が素早く出来た。
4.平底船、なおかつ横帆ではムリと言われた「詰め開き」(切り上がり、クローズホールド)
  つまり風上に向かって最大60度くらいまで帆走できた。
  理由は横帆にしては正方形なので「アスペクト比」が洋式帆船より大きかったから。
    (同洋式横帆の練習船「日本丸」はの横帆は長方形。70度が限度。
      現代ヨットは45度ぐらい。最新のレース艇は30度近くも風上に上れる)
  竜骨(キール)の目的は横流れ防止の役割がある。
  帆船は「デイープキール」つまり竜骨が深く水中にあったのでクローズ・ホールドが出来た。

  現代ヨットはセンターボード、ダガーボード、フインキール、バラストキール、ウイングと、
  次々に進化してきた。
  ヘイエルダールの「コンテイキ号」もイカダの間にボードを挿し込んでだ。

  弁材船はどうやったかと言うと、船首を鋭く、深く水中に入れた。
  舵板の面積を巨大化させた。これで水中の側面積を広く分担させた。
  
  だがこれは舵板の保持力が巨大になる。
  これを解決するのに「バランスド・ラダー」にまで進化した!
  舵軸に「根曲がり材」を使って舵板の前端ではなくて水圧中心にしたのだ、
4.大阪~江戸をノンストップで最短60時間で帆走した。セールエリアをドンドン大きくした。
         (現代ヨットでもノンストップ3日間は厳しい)


だが、著者の弁材船の礼賛はヨット乗りから見ると非常にムリがある。

2項の、水密甲板を持たなかった点は致命的な欠点である。沿岸航海ですら危険だ。
向かい波では「水船」になって沈没する。
なので追い風になるまで「風待ち港」に待機した。
だが風待ちすると、再出港にまた手間がかかる。 船頭はムリする。悪循環だ。
オープンボートに甲板上まで目いっぱい荷を積み上げたなんて自殺行為だ。
トップヘビーで転覆する。荷は波浪でビショビショ!

当時の中国の「ジャンク」は水密甲板の上に、もう1層のスノコ状の甲板があった。
それを知っていたのに作る気なしだったのだ。
人命軽視、荷役経済性最優先!これが致命的欠陥だ。
きわめて多くの海難、沈没、漂流事故が発生した。神頼みの航海だ。

たしかに、バイキングシップだってオープンボートだった。
コロンブスが大陸を発見するずっと前に北米まで渡ったことが分かっている。
だが乗員のほぼ全てがオールを漕げる構造だ。大きな横帆とキールがあった。
細身の快速舟だ。船底にはバラストとして石を固定した。
荒天になれば、波が入らないように風に向かって必死で漕ぎまくったのだろう。

現代でも、オープンボートでの外洋横断の記録はいくつかある。
だがこれらは「ダブルボトム」だ。水密デッキが水面より上にある。
なおかつセルフベイラーやオープントランサムで自動排水が出来た。
  
3項の、引上げ式の舵板の脆弱性も非常に危険だ。無謀としかいえない。
舵のシャフト軸受けは上端にしかない。しかも半円の窪みだけ!
上端を支点にして半円に回転して引き上げるので下端に軸受けは無い。
舵板本体は左右のロープで引き寄せてる!
これでは荒天の追い波を受けたら外れる、暴れて壊れることマチガイなし。

たしかに現代の小型ヨット(デインギー)にも「キックアップラダー」がある。
だがシャフトの軸受けは上下2ケ所にある。下端を支点にはね上がるから強固である。
  
4項の、リーウエイ対策の舵板面積の拡大は、側面積が船首と船尾に集中するので
かえって旋回性を悪くする。保舵力も過大になる。バランスドラダーにしても強度は不足する。
現代ヨットのバラストキールやフインは船体中心にあるので旋回性を妨げない。


かっての中世には日本中にローカルな船種、船型があった。
だが秀吉の朝鮮出兵に伴う大量造船を迎えて困り、それらの統一化が進んだ。
さらに江戸幕府の確立により、大規模城下町ブームとなり、建築材料としての木材、
食材、酒、綿花、、もろもろの流通機構が発展した。

だが船は相変わらず櫓、櫂(ロ、カイ)で推進するものばかり、帆走は補助だった。
多数の水主(カコ)つまり奴隷のような漕ぎ手を必要とした。これでは大型化すらままならない。
そこで、帆走主体で航海で来るように帆を巨大化したりして改良が進められた。
それが元禄の頃に完成形になった弁材船なのである。
でも船型自体はほとんど変わっていない。
勿論、出入港には櫓を必要としたが、あくまで航海中は帆走となった。

和船の技術的最盛期、最終期は徳川300年の鎖国時代だった。
そもそそも鎖国という呼び方は明治以降に現れた!なぜか?
明治政府は、江戸幕府の政治を全面否定したかった。
「寺社廃仏」とかヒドイことをやった。だから鎖国という言葉を使った。

鎖国と言えばオランダ以外は全く諸外国を受け付けないと思われてきた。
そんなことはない。キリスト教の弾圧、密貿易の取り締まりとかはあったが、
朝鮮半島はもとより、中国、台湾、フィリピン、ベトナム、その他、、、
東南アジア各国との交易は普通に行っていた。欧州各国ともオランダを通じてやってた。
いろんな欧州人も来日して、徳川幕府の上部と接触していた。
黒船来航も唐突ではなかった。幕府はあの大型帆船の知識はあった。

和船も明治政府から全面拒否された。だが昭和の初めまで普通に就航してた。
「幕府が構造を制限したために、和船は海外渡航できる性能、構造、耐久性を失った」
と喧伝されてきた。事実、私もそう習ってきた。
幕府のご禁令は、、、
1.外洋航行可能な巨大船は作ってはならない。
2.波浪の浸水を防ぐ「水密甲板」を設けてはならない。
3.強度、耐航性を高める「竜骨」(キール)を設けてはならない。
だが、こんな禁令は存在しなかったのだ。

木造巨大船のサイズの限界が出来たのは経済的な理由だった。
天災、飢餓、大火のときは積荷が減って廃船したり、小さくなる。
だがその後の復興景気にははドンドン巨大化させて省力化をやった。
その繰り返し、まるで現代の運用業界みたいなもんだ。

確かに和船は川船から発展し、平底ではあった。だが強度は厚板を使って十分だった。
その上、平底の外に縦通材を通して竜骨の役目をさせていた。
 



日本の天候は、世界的にも稀なくらい変化が激しい。
有名な北前船、北国船などの日本海の航路は、実は冬の季節風が吹き荒れる
冬季12月から3月まで完全に禁止されていた。
このことは一般にはほとんど知られていない。

冬の季節風が日本アルプスの脊嶺で遮られる太平洋側といえども、
新幹線が毎冬、雪で止まる名古屋、米原あたりは同じように危険だった。
富士山からの吹きおろしも強かった。伊勢、志摩、御前崎あたりは海難の名所だ。

秋になると日本海を低気圧が通り、太平洋側は数日の間、西の強風が続く。
これは「大西」と呼んで恐れられた。台風だって、全く予期できない時代だった。
だが大消費地の江戸への物流は止められない。
江戸っ子は、1人当たり毎日1合の酒を飲んだ!灘の新酒が来なければ困る。
命を懸けても廻船問屋は儲かった。有名な紀伊国屋文左衛門の世界だ。
船頭は最短距離をノンストップ航海。当然、どこかで荒天に捕まる。

最後に和船を見たのはいつだったか?
戦時中、4歳のときに日本橋の水天宮近くに居候してた。
近くの橋へ行って下を見下したら、川底が見えるほど澄んでいた。
大きな和船が抜けていったのを今でも覚えている。
1本の長い櫓(ロ)を高齢の夫婦2人してゆったりと漕いでいた。
櫓船は必ず左右に揺れるはずなのに揺れてなかった。
多分、あまりに和船が大きかったからだろう。
そのあとすぐに東京大空襲!あの夫婦はどうなったのだろうか、、、

敗戦直後、祖父が羽田で再び海苔養殖を再開しようと、「焼き玉エンジン付き」の和船を新造した。
舟卸し(進水)に連れてってくれた。
フネが水に浸かると同時に、舷側の杉板の節(フシ)がスポンと抜けて水が噴き出した!
船大工は少しも慌てず、丸い木栓をポンポンと打ち込んで、ノミで頭を切り落としてオシマイ、
鮮やかだった。焼き玉エンジンは不調で、とうとう始動しなかったが。
その舟で羽田沖で海水浴に連れて行ってくれたこともある。
岸は焼野原だったが、やはり水中の魚が見えるほど水が澄んでいた。

昭和30年代には東京湾の運河に水上生活者が何所帯もいた。
ダルマ船と呼ばれる動力無しの「ハシケ」の和船の中で生活し、そのフネで荷役作業を請け負ってた。
昭和50年代でもダルマ船は係留されていた。

日本の巨大木造船が絶滅したのは、いつ頃だったのか?
私が最後に見たのは35年前、伊勢湾の「佐久島」の東側の廃港に朽ち果てた巨大木造漁船と、
東京の「悲劇の福竜丸保存博物館」だった。でもあれは「和船」ではなくて「木造洋船」である。
こんな巨大な木造構造を、よくもまあ作れたものだ。
しかも脆弱なこの船に乗って遠洋漁業に出たのだ。先人はスゴイ!命知らずだったのだ。

話を戻して、、、千葉の館山新市「海の博物館」へ行けば、本物の「和船」(弁材船)が見れる。
いつもハイテンションな「サカナクン」!で有名なスポットだ。
ただし小型漁船、中型漁船ではあるが貴重なコレクションである。

私が50年以上前、30代で背骨骨折、100日も入院した横須賀の金沢病院の話だけど、、、
隣のベッド仲間は能登半島は「七尾」の出身で50代の純朴、温厚な元漁師だった。
造船所で働いていたが、天井クレーン操作マンのミスにやられて、移動してきた鉄骨が
止まり切れずに大きく揺れて彼を直撃、骨盤骨折に!
看護にやってくる奥さんは同郷の美人だった!退院は私よりやや早かった。
だから何なの?いや、別に、、、、

彼は毎日、能登半島での過酷な漁師生活を話してくれた。
沖の漁場小さなエンジン無しの木造船でタイ釣りに行く。
3時間も櫓を漕ぎ続けて釣り場に到着1そして一本釣り。
帰りは、運が良ければ帆に追い風を受けて楽に帰航できた。

だが、、、運が悪いと強風にやられる。その時は帆柱を切り倒して運を天に任せて漂流。
毎年、海難で漁師は何人も死んだ。それが怖くて横須賀に働きに出てきた。
でも当時の都会の工場でも安全ではなかった。
「命と交換、日本鋼管!」などと揶揄されるほど、造船所の人身事故も多かったのだ。

木造船は使わないときは浜に引き上げて乾かす。乾けばスキマだらけ。
海に下せばジャジャ漏れ!だがすぐに木が膨らんで水漏れが無くなっていく。
実に原始的だった。
海水は淡水よりもバクテリアの攻撃は少ない。だが、雨が降ればバクテリアで腐っていく。
なので高級木造ヨットは、人を雇ってでも常に甲板回りにニス塗りを怠らなかった。
大変な出費である。だから日本では高級木造ヨットは絶滅した。

さてと、、、木造船とFRPプラスチック船は、どちらが重いか?
大抵の人は「木のほうが軽い」と言う。だが実際はプラスチック船のほうがはるかに軽い!
そのおかげでプラスチック漁船は「滑走」(プレーニング)すら出来るようになった。
ピンポン玉である。
いっぽう、外板が薄く出来るプラスチック船は「パンチング」(波当たり)には弱い。
今にも潰れそうな音を出す。
実際、モーターボートみたいに高速だと波頭から落ちて亀裂が出来る。
いっぽう、木造船はやたら厚い板なのでヘッチャラ。ただし今にも壊れそうなキシミ音を出す。

書きかけです。
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飢餓地獄で生死を分けたもの

この本の大半は軍事関係なので、それ以外の興味深い点だけ抜粋した。
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「海軍設営隊の太平洋戦争」       佐用泰司著  光人社発行
    サブタイトル:「航空基地築城の展開と活躍」

日本軍には、海軍にも、陸軍にも「航空隊」があって「空軍」は無かった。
ということは陸軍にも航空基地設営隊があったのか?

それはともかく島嶼に滑走路を急造する、いわゆる海軍工兵隊の話である。
トップは技術将校だが下部組織は戦闘員ではない!ほぼ武器を持たない「軍属」である。
大工、船大工、溶接工、板金、機械加工、農民、元漁師、、、、雑多な構成だ。

陸軍の招集兵だって寄せ集めだが、それでも結果は大きく分かれた。
旧日本軍の「海軍工兵隊」は南洋の島嶼で生き延びた。
だが島を守った陸軍は大量の餓死者を出したのだ。

なぜか? 工兵隊は軍属だったから!
民間人による自由な発想、創意工夫の迅速な実践。
民主的な指導者のもと、栄養学と衛生知識を駆使した自給自足ができたのだ。

いっぽうの陸軍というと、、、彼らはビンタ、体罰による恐怖支配。
命令に背けば営倉、軍法会議。だから誰もが上官の命令を待つだけ。
その上官も本部へ補給を通信するだけ、返事が来なくても手をこまねいていた。
命令が来なければ何もしない、何も出来ない。そういう体質になり切っていた。
結果として自給自足生活へのスタートが遅れた。それが致命傷になった。

何度も言うけど、そもそも大本営はこれだけ伸び切っていた前線を、どうやって兵站(補給)
するつもりだったのか?
中国戦線みたいに現地調達(民家の略奪)をするほどジャングルには住人がいない。
太平洋戦争そのものが、ほぼ補給が不可能な戦争だったのだ。   

兵站(補給)をないがしろにした日本軍であるから当然、工兵も単なる下働き扱い。
さすがに戦中後半には、これではいかんと遅まきながら軍隊化はされたが。
それでも戦闘集団が進出する前に飛行場や建物や給排水、トーチカなどを
建設しなければならない。
最前線の危険な作業ばかり。その割には小人数集団だった。
工兵隊には徴用工、、朝鮮人、ニューギニアの現地人がいた。
皆な、重労働の土木作業に駆り出される。日本軍は人海戦術だ。
アメリカ軍のように機械化されていなかった。

だから指揮官は部下の健康を第一に考えなければならなかった。
人が倒れたら仕事が止まる。熱帯での土木作業労働自体が極めて問題なのだが。
栄養失調、マラリア、熱帯性熱病、赤痢、疫痢、トイレの処理方法、、、
工夫に工夫を重ねた。部下は守られた。

未開の南洋、ニューギニアのソロン基地が舞台。
だが陸軍マッカーサーも海軍ミニッツも、上陸することなくスルー。
ここの滑走路を占領しても日本へは遠すぎる。大型機の空襲には使えないからだ。
滑走路が使えないように空襲は続いたが、日本軍機はもう皆無になった。
戦略的には置き去り、ニューギニアは主戦場ではなくなった。

その後は補給が途絶えた飢餓地獄!日本軍の船は全く来ない。
ニューギニアの日本軍15万人は孤立無援となった。
その生死を分けたのが「自活できない戦闘集団」と「自活出来た工兵集団」の差だった。

熱帯のジャングルだからいつもパパイア、バナナ、ヤシが実り、鳥や野ブタが徘徊してる。
食べるものくらいあるだろう、現にわずかながらも原住民は生活できてるし、、、、
いや、狭い島嶼に、あまりに多数の将兵が残置されたので、何でもかんでも食いつくしたのだ!
苗すら食い尽くした!海に魚を取りたくても散発的な空襲にやられる。

工兵集団は、食いつくすことはしなかった。
わずかな種や蔓を入手して、なんとか栽培できないかと工夫した。
だが米も麦も、大豆も芽が出ない。コーリャン、トウモロコシは芽が出た。
いっぽう、かぼちゃや甘藷(サツマイモ)は蔓から根が出た。
仕方なく、低カロリーだが収穫が容易な甘藷が主食になった。
意外なことに常夏、南洋では秋野菜、、、大根、ナスは種を付けないのだ!
理由は寒い冬の休眠がないから。
カボチャ、唐辛子、トウモロコシは種が取れた。
最後には苦労して作った滑走路も、泣く泣く掘り返して広大な畑にした。

各自が持つ徴兵前の民間技術、ノウハウを活用して、あらゆる工夫を実行に移した。
トラックの車輪で回す製材機、石臼!旨くないコーリャン、トウモロコシを製粉して焼いた。
農具、工具、漁労のはえ縄、釣り針、カヌー作り、漁船作り、製塩、、
ワナによる狩猟、現地人から譲ってもらったニワトリやアヒルを飼って卵を得て増やした。
ここでも多少は民主的だった組織風土が良い方向に向いた。

一方の陸軍はというと、自分で考えて工夫する体質を失っていた。
ひたすら命令を待ち、補給を打電した。だが当然、本土からは何も来ない。
何も生産しようとしない。
ジャングルを伐採して畑を作ると、上空から敵に見つかるからと躊躇した。
結果、栄養失調で大半がヨロヨロになって、とうとうジャングルを伐採する体力すら失った。
15万人の陸軍は「ジャングルの俘虜」と化した。

炭水化物、タンパク質はなんとかなっていったが、ビタミン食品が入手できなかった。
飢餓の中で脚気や、新鮮野菜不足によるビタミン不足に直面したが、
工兵隊は、あらゆる野草、植物を試み、これらを栄養知識で切り抜けた。

あの悪名高き、明治の陸軍軍医総監の文豪「森鴎外」は、白米偏重の陸軍食による
「脚気」を最後までビタミンB!欠乏症とは認めようとせず、留学で習った「細菌説」に固執した。
その結果、日露戦争では何万の陸軍将兵を戦わずして脚気で死なせた!
海軍はいち早く、これに気が付いて脚気死亡者はほぼゼロだったというのに。

富士山頂上測候所を開いて、初めて越冬した野中至夫妻も結局は新鮮野菜不足で倒れた。
我々は食物繊維のために野菜を食べてるわけではない。
ビタミンは人間が生きていくためには非常に大切なのだ。

書きかけです。




中国大陸打通作戦、知られざる日中戦争

またまたトンデモナイ本を見付けてしまった。

  「中国行軍 徒歩6500キロ」  掘 啓 著    川辺書林

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著者は、昭和18年、赤紙(招集令状)で徴兵された21才の鉱石分析技術者。
すでに戦況が傾き始めていた日本軍が、起死回生策の一環として計画した「湘桂作戦」
通称「大陸打通作戦」の、一兵卒としての体験記だ。

最初に、、、なんでこんなムチャクチャな作戦がまかり通ったのか?
20㎏の重装備で、1日に昼夜兼行で20キロ、ときには40キロも徒歩で行軍する。
戦闘となれば、分解した迫撃砲部品50㎏を背負って走る。
1年かけて中国大陸を徒歩行軍、そして転向(往復)した。
軍隊は人間を消耗品としか見ていない。

もっとも、ごく最近、アメリカ海兵隊特殊部隊の入隊行軍でも死者が出て、
過激な訓練が問題になったばかり。どこの国の軍隊も人間の限界を無視している。
自衛隊でも、かって館山の基地だったかな? 重装備させた18才の新人(新兵)に対して、
深い水路を突破する訓練をさせた。結果、何人かが溺死した痛ましい事故があった。

昭和18年といえば既に、南方からのシーレーン(海上輸送)は、アメリカの潜水艦の攻撃で
絶望的になっていた。そこで、南方資源を陸路ベトナム経由で中国大陸の真っただ中の
鉄道とその沿線道路で日本に運ぶという壮大な戦略。
沿線の中国軍拠点を次々と陥落させて、そこに守備隊を駐留させるという。

そんなこと自体が可能とは到底思えない。
広大な中国大陸は蒋介石軍と毛沢東軍の支配下にある。
拠点を一時的に占領したとしても、いずれ守備隊は孤立する。
長く伸び切った戦線をどうやって維持する気だったのか?

作戦前の南京での7ケ月の新兵訓練は、古参兵が「連帯責任懲罰」、つまり1人が
ミスすると、その班の全員に対して往復ビンタ、拳骨制裁をする日々。
「戦闘になったらあいつを後ろから撃ってやる!」との陰口まで。
だがいざ戦闘の時、人数が減っても困るし、誰も実行はしなかったが。

上部からの体罰禁止が出ても、古参兵は見えない背中へのバックル付き革バンドでの
ムチ打ちをやった。それも教官に露見すると最後は尻打ちへ。ほぼ暴力団だ。
装備の内部検査で不足があると大変なことに。員数合わせのために他の隊から盗んでくる。
盗まれた隊は大変だ!更に別な隊から盗んでくる。

昭和19年5月、南京の南東、揚子沿岸にある武昌(漢口)から50万人が行軍開始。
迫撃砲手としての行軍開始、直線距離4200kmの鉄道に沿って、幅120kmに展開、
資源補給線路の確保を目的に、沿線の中国軍と交戦、排除しながら、
延べ6500kmの徒歩行軍と侵攻の末、ベトナム国境へ到達。
1年後、出発地に戻ったあとに敗戦。

戦車100台、火砲1300門とは言え機械化部隊ではない。ほぼ人力部隊だ。
6万7000頭の軍馬、現地調達のロバの背中に迫撃砲を積載して徒歩で行軍、
えばった隊長だけは馬の上。
先頭は歩兵集団が交戦する。それを後方から迫撃砲で支援。
雨の中、泥の中、腰上までの大河渡渉、マラリア、赤痢、下痢、血尿、疥癬、回虫騒ぎ。

食料は現地調達、といっても、全て通過する村からの略奪で賄った。
中国人民は日本軍が来る前に食料を隠して山へ逃げた。日本軍はその食糧を捜索する。
隠してあった米。貴金属も奪取。家畜は解体して肉に。
日本軍の通過した跡には何も残らなかった。
弾薬の兵站(補給)だけは確保されていたので不足は無かった。軍医も付随してた。
なので「インパール作戦」のような壮絶な餓死者、病死者は出なかったが。

行軍中は米空軍の爆撃、機銃掃射に晒される。
なので昼間は行動できず。夜間や悪天候を利用して行軍したから、なおさら辛い。
あまりの辛さから、新兵の手榴弾自殺が続発。

当然、捕虜の拷問、虐殺もやった。毒ガス弾も使ったが、作戦途中で天皇命令が出て
回収された。東京空襲でアメリカ軍もガス弾を使ったら大変だというのが理由だった。

米空軍の爆撃で一瞬のうちに中隊200人が壊滅。300人のうち生き残りが7名の中隊も。
初期の17日間で中隊の30%が脱落。
300キロ行軍したところで補充新兵の脱落者は半数に及んだ。
虎!にまで襲撃された。唯一の救いは満州のように寒くはなかったこと。
南進するほどに温暖になった。

出発地に帰着して、南京へ向かう途中で敗戦の報が。
蒋介石軍は、ジュネーブ条約を守って捕虜虐待はせず。
そこから南京までの復員ではもう食料の略奪は出来ず。
往路で略奪した銀貨で物々交換して食料を入手。
全行程を通じて日本軍は、まるで強盗、ドロボウ軍隊だ。


以前にも書いたが、私が生後3ケ月の時に満州に出征、敗戦でシベリアに抑留され、
4年後に現地で死亡した。
何で日本人が満州に進出したのか?長年の疑問でした。

簡単に言えば、、、
日露戦争で勝ったけど、ロシアは中国に侵攻して巻き上げた「満蒙」つまり満州を
日本に譲っただけだった。「貰ったんだから日本の物だ」と思っていたが、
もともと中国の土地だ。そこには中国人が住んでいてた。

そこに悪名高き「関東軍」を送り込んだ。
さらに「満蒙開拓団」を送り込み、中国人から安値で土地を収奪した。
期待に反して、資源といえば石炭ぐらい、石油は出なかった。辺境の地である。
農業しか利用価値がない。
「満鉄」といっても既存の中国の鉄道を接収しただけのこと。
満鉄の関連事業だけが日本人のビジネス、それも赤字路線。

当時の中国は軍閥だらけで統一されてなかったので、ゲリラ(匪賊)活動で対抗。
その中で関東軍がやりたい放題。「張作霖爆殺」とか、{盧溝橋事件」とか。
その収拾をすべきところを、逆に近衛内閣が、抗日感情を見誤り、拡大させた。
結果、力を付けていた蒋介石軍と全面衝突。
蒋介石軍は毛沢東軍と共闘を組んだので、いずれ強大になった。

一方の日本海軍も「上海事変」を見誤って拡大させた。
こっちも欧米に後押しされた蒋介石軍に圧倒されて日本は大損失、敗退。
それを陸軍の関東軍が押し返すべく、南京まで侵攻。「南京大虐殺」で世界問題に。

その結末が「大陸打通作戦」、、
だが敗戦後の日本では「忘れられた大作戦」となった。

物凄い浪費だ。日本軍というのは日本の国家予算の5倍を消費した。
そして何も残らなかった。

書きかけです。


ナマショク(生食)の話

東西ドイツ統合(1990年)の頃の話だから、もう30年以上前になったけど。
仕事がらみで、毎年のように入れ替わり立ち代わり来日する西ドイツの試験機関の
連中と仲良くなった。といってもドイツ語は全くダメ、
当方は中学生英語!のブロークン・イングリッシュ。向こうはドイツ語なまりの英語?
という珍妙なお付き合い。勿論、通訳として社内の帰国子女が付いていたが、
不思議なことに英語が分からない小生のほうが便利がられた。

毎回、彼らは昼食時にいろんな話題を持ってくる。
「統一したけど旧東ドイツの連中は寄生虫だ!」「ビンボー人ばかりだ」
「難民、移民をガンガン受け入れる今のドイツ政府はなっとらん!」
「治安がドンドン悪くなってる」「日本も外国人労働者を受け入れてるけど、今に泣くぞ」
おみやげに「東西ドイツの壁」を破壊したコンクリ破片をくれた。
「放射能物質が入ってるかもよ」と。そんなもの要るか!

「日本は、なんで踏切で一時停車するのか?危ない!」
ドイツでは踏切が開いてれば絶対に止まってはならない。止まったら追突される。
「ガソリンスタンドでは自分で入れないのか?ドイツはセルフばかりだ!」
当時の日本にはセルフは皆無だった。
ホームレスを説明できなくて苦し紛れに「ルンペンだ」と言ったら大当たり!
ルンペンはドイツ語だったのだ。

ある時の話題は、、、、
「日本文化の刺身は食中毒が問題だ」と。  ナニソレ?
欧米では日本食、寿司の大ブームが起きてた時代だった。
ところがドイツでは今、「魚を生で食うと大変なのだ」というニュースで持ち切りだそうだ。

あー、アニサキスね。サバ寿司でも食わない限り大丈夫ですよ.

「そうじゃない!どんな魚でもナマは危ないのだ!」  
そんなわけない。日本人は昔から新鮮な魚は刺身で食ってきた.

自分で釣った魚ならたいてい刺身で食ってたが何ともなかったぞ。
だったらオランダのニシンの生食はどうなんだ?
「あれは長く酢に漬けてあるからOKだ」
ウソつけ!酢でアニサキスは死なない、と大論争に。

この頃から身近にアニサキスにやられた話が増え始めた気がする。
といっても当人は「怪しい飲食店に出入りしてたんだ」と思われるので話したがらない。
そうこうしてるうちにスーパーに並んだサンマにまで、「これは解凍品です」とか、
「これは冷凍してないのでアニサキスが居る可能性があります」と表示される時代になった。
段々。分からなくなってきた。そこで図書館で本を見付けた。

     生食(なましょく)のはなし、リスクを知っておいしく食べる」  朝倉書店

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結論から先に言うと、、、「何でこういうことは学校では教えないのか!」
内容は中学生、いや小学生高学年なら十分理解できる。
ユッケを食って集団食中毒が起きるということは、学校で生食の怖さを教わって
なかったためだ。

食中毒の発生統計は、規制の変化に伴って年を追うごとに変化する。
その食材の流通量や産地が大きく変われば食中毒も増える。
だからこれまで問題ないナマ食材が、ある時突然、大問題になる。
サバのアニサキスは太平洋には多いが日本海には少ない。
同様に、食材の処理技術にも地方性がある。
つまりナマ食材は、潜在的に見れば日本中、全て危険なのだ!

まあ、敗戦直後の時代だったら仕方がないが。
何にしろあの頃は赤痢も、疫痢も、腸チフスも、何でもありだったからね。
人類は火を使うことで、食中毒からの死亡率が劇的に下がった。
その結果、他の動物よりはるかに繁栄してきた。
生食は進化に対する退歩である。

この本は読めば読むほど食中毒の奥が深いことがよく分かる。
だが専門的、網羅的なのでメンドクサイ。
なので私の体験談と、プラス独断と偏見で知りたいことだけ都合よく羅列してみよう。

1.牛肉(腸管出血性大腸菌、カンピロパクター、E型肝炎)

牛は草食なので、豚ほど危険ではない。だからといって生食はあり得ない。
ビフテキはレアでも大丈夫、なぜか?
筋肉の内部には細菌は居ない。だから外側だけに付着してる細菌を加熱することで殺せばいい。
細菌がいるのは内臓だ。食肉処理の段階で。それが筋肉の表面に付着するのは完全に防げない。

「ユッケ」とかいう牛のレバーの生食中毒が大発生!そんなものをナマで食うのか?
心臓の刺身?牛刺し、牛タタキ、牛タルタルステーキ、、、いい加減にしろと言いたい。

ただし、挽肉はアブナイ。表面に付着した細菌がゴチャゴチャ内部に混ぜ込まれてる。
なのでハンバーグの場合の「レア焼き」は絶対ダメ!芯までしっかり火を通すこと。
挽肉を買ったら、そのまま冷蔵、冷凍ではアウトだ。
直ちに「ソボロ」になるまで炒めてから冷凍保管すべし。
レバー(E型肝炎)は確実に内部まで火を通すこと。
80度、3分以上が最低限必要。

2.豚肉(E型肝炎ウイルス、サルモネラ菌、リステリア、カンピロパクター、エルニシア、
         有鉤条虫、トキソプラズマ、旋毛虫)

草食の牛と違って、豚は「雑食」だから生食したら大変なことになる!
豚肉、豚レバーの生食の習慣はない。だから衛生基準も無い。
いや、牛レバーのユッケ禁止の一時期、代用として豚レバーや豚刺みを食ったバカがいて、
大事件にはなったが。
豚肉の半焼け、レアーは極めて危険だ。絶対に芯まで完全に火を通すこと。
まあ、豚肉の生焼けは生臭くて食べれないけど。

3.馬肉

馬刺し?一度食べさせられたけど、さすがに気味悪かった。
馬刺しは日本にしかない文化?加藤清正が朝鮮出兵時に軍馬を食べたとか?
だから不思議なことに馬刺しは衛生基準があり、法的に認められてきた。
食中毒も少なかった。草食動物だったからかも知れない。
だが、ある時突然、大発生!輸入馬肉のせいらしい。
そもそも馬を食う文化は世界的にも少ないのだ。


4.ジビエ(鹿、猪)、、、(ばい菌、ウイルス、寄生虫だらけ)

ジビエ(駆除された有害獣の料理)ブームも来た。
だが、当然、生食はあり得ない。芯まで十分加熱が絶対条件!
レアのビフテキなど危険一杯だ。
熊の胆とかは昔から度々事件が起きてる。

屠殺も、やっと小規模でちゃんとした工場設備と認証制度が出来始めてるが、
現場での獣医師による病気の有無の確認とかが義務付けられていない。

山の中で捕獲した獲物を下してくること自体が大変なのだ。
死んでから時間が経つと、臭みが抜けない。
野生動物は臭い!ダニ、ヤマビルが一杯付いてる!
それらが宿主が死ぬとゾロゾロ落ちてくる!

猟師が、殺した猪を沢の中で捌いてるのを目撃したことあり!内臓は全部、沢に流れてた。
そのあと。トンビ、カラスの大群が空を舞ってた。
沢登りしてると沢山、骸骨に出会うのはこのせいだ。

5.鶏肉(サルモネラ、カンピロパクター)

鳥刺しは自殺行為だ,「鳥刺し用の鶏肉」なんて、法律的には存在しない。
と思ったら、南九州では普通に食べられてて、食中毒も少ない?
歴史的にそれなりの安全対策、、、解体時の内臓と肉の仕分けとか、
表面だけ焦がすとか、工夫されてきた。フグと同じだ。

だが、販売されてる鶏肉の表面には確実に、しかも大量に細菌が存在する!
包丁も、まな板も、手も、細菌だらけ!
ゴム手袋、サランラップに乗せてカットするとか、とにかく手で触れないこと。
調理後にそれらをしっかり洗浄、しかし洗ったシブキが周囲に細菌を飛散させる!
切り分けられた肉を買うことが一番安全。手を触れずに調理すること。

加熱不十分だと簡単に食中毒になる。
ただし、ジューシーな「唐揚げ」は大丈夫。細菌は筋肉の外側にしか付かないからだ。
鶏肉は加熱しすぎるとパサパサになって旨くないからね。

6.乳製品(サルモネラ菌、カンピロパクター、腸管出血性大腸菌、リステリア、
                       黄色ブドウ球菌、セレウス菌)

牛乳は製造工程で殺菌されてるので、殺菌工程での事故でしか食中毒は発生しない。
だから殺菌しないで作ったナチュラルチーズは当然、危ない。
牛乳は、冷蔵しても保存期限は守ること。

最近はやりのヤギ乳を、その場で飲むなんて絶対やめるべし。
かの、ナイチンゲールは、そのせいで後世は寝たきり生活になった!

7.卵(サルモネラ菌)

欧米では生卵は食べない!「卵かけご飯」にはビックリするはず。
卵とじトンカツ丼すら、長く放置してると危ない?!

日本人は卵の衛生管理なんて気にしてなかった。
昔から自宅で飼ってた鶏の卵(フンが付いてた!)をナマで食べてきた。
さすがに「殻の表面をゴシゴシ洗うと気孔から黴菌が入る」とは言われていたが。

今のところ日本では出荷前の衛生管理が行き届いているので安全だが、絶対ではない!
10度以下で保管し、殻を割ったらすぐ調理すること。
サルモネラが増殖する時間を与えないこと。自家用マヨネーズ作りは危ない。

8.海水魚(アニサキス、腸管ビブリオ菌)

アニサキスは餌のオキアミに寄生、それが魚に食われて生命循環している。
だからどんな海水魚にもいる!目視で取り除く?そんなことでは不完全。
とはいえ、海辺の観光地へ行けば、取れたて地魚の刺身、タタキを普通に食べれる。
つまり取って、すぐ内臓を取り出せば、「めったに」アニサキスには遭遇しない。
だが絶対に居ないわけではない!

ー20度、ー35度、何時間、何日間とか、本格冷凍でないと死なない。
なので家庭の冷凍庫ではダメらしい。
酢、ショウガ、ワサビ、ニンニクでも死なない。
かっては、サバ、青魚食って蕁麻疹、ジンマシンになったことがあったが
これはアニサキスのアレルギー症状だった!

アニサキスは本格冷凍されたマグロの刺身には全く関係ない。
だが自分で釣ったアジですらアブナイのだ。

9.淡水魚(寄生虫)

父子でアユ釣りして、刺身にして食べた幼い娘が食中毒になったニュースが!
淡水魚の刺身はヤバイとは思っていたが、ならば鯉やナマズの「洗い」はどうなんだ?
「シラウオの踊り食い」なんてとてもヤバそう。
鯉の「洗い」は、よく洗うから大丈夫なのか?
サーモンの刺身は養殖での衛生管理に頼ってるだけなのだ。

10.貝(貝毒、細菌、ウイルス)

貝の生食といえば「カキ」しかない。今は生産段階で管理されてるので安全。
だが貝は加熱しても有害な「貝毒」が発生する厄介者である。
伊勢湾の海岸での潮干狩りは「アサリの貝毒発生警報」で毎年、禁止になるのだ。

11.生野菜(大腸菌ほか)

かってはカイワレ大根中毒事件があった。
祭りの露店での「冷やしキュウリ」事件もあった。
健康志向で野菜サラダも全盛であるが、小生は大嫌いだ、コワイ。

欧米ではキュウリ、トマトで食中毒の大事件が度々発生している。
ドイツは、フランス、スペイン、イタリアからの生鮮野菜に頼ってる。
隣国の衛生管理にも文句をいわなければならない。
ひとたび食中毒が起これば国際問題、賠償問題に発展する。
日本で発生してないのは生産、流通、輸入での衛生管理のおかげでしかない。

生食と言えるかどうかだが、野菜の発酵食品(キムチ、浅漬け、キュウリの塩もみ、
白菜の一夜漬け、なれ寿司など)はもっと複雑で食中毒と紙一重だ。

私は敗戦直後に進駐軍からの指示で、小学校では「ヒマシ油」を強制的に飲まされて
「回虫退治」させられた年代である。
あれは強烈な下剤で、一気に回虫を排泄させるだけの代物である。殺虫薬ではない。
日本では、はるか昔から肥料として人糞が当然のように撒かれてきた。
回虫が体内と畑を循環するのは当然である。今でも中国、東南アジアでは普通だ。
そんな輸入野菜を今、ナマで食べるご時世である。覚悟すべし!

12.ハチミツ(ポリツヌス菌)

よく知られたことだが、乳児にはハチミツ厳禁!
なぜか、乳児の腸管でポリツヌス菌は大増殖するのだそうだ。

13.湧き水ブーム

名水と呼ばれた所は、ちゃんと水質検査をしている、、とも言えない。
ポリタンクで大量に汲みに来る人がいるが、湧き水には塩素が入ってないので
1週間もすれば細菌が増殖する!水道水とは違うことを知らない人が多い。
ナマで飲むのはアブナイ!

登山の途中で沢水を飲むのは自殺行為だ。全く濾過されていないし、
上流に山小屋でもあればトイレは沢に垂れ流しだああ!
北海道なら「エキノコックス」に汚染されてると思うべし。

沢水で顔を洗ったら「鼻腔の中に寄生虫が住み着いた」なんて事故はアメリカでは普通にある!

水に塩素を入れれば滅菌出来ることを発見したのは偉人、ゴッホだ。
だがその論文はだれも着目せず、50年が経過。
シカゴの市街は湿地帯に松の杭を建ててその上に都市を作った!ベニスと同じだ。
なので毎年、夏には赤痢、疫痢の大流行が、、、
困り果てた水道局の技術者がゴッホの論文を発見。
こっそり水道に塩素を適量投入。その年には赤痢も疫痢もほとんど発生しなかった!
だが本人は御用となって裁判沙汰になった。

世界周航するヨットは、港ごとに清水タンクに給水しなければならない。
それが塩素入りの水道水なら1ケ月は安全だ。
だが絶海の島だったら塩素は入ってない!煮沸しなければ大変だ。

ヨットは波で揺れる。清水タンクの中も揺れる。攪拌されるので多少は長持ちする。
港に長時間停泊してるときは、清水タンクの中の水はアブナイということ。

書きかけです。


ペリリュー島、沖縄戦記を読んだ

移住した小生の余生は病院と図書館通い。フト「手記」という分類棚が目についた。
そこで発見したのがタイトルにある地味な文庫本だった。
なお、小生はミリタリー・オタクではない。 そのことはあとで述べますが。
 
       「ペリリュー島、沖縄戦記」   ユージン・B・スレッジ著

戦記というよりも、ニックネーム「スレッジハンマー」自身の戦場日記による体験記。
若くして海兵隊に憧れて志願、過酷な訓練の後に戦場に送り出された。
戦後は大学教授にまでなったインテリだ。一気に読んだ。

戦略的にたいして重要でなかった小さなペリリュー島。
日本軍の飛行場があったので、ここを使えなくしようとしたのか?
だが肝心の日本の軍用機はもう来れない戦況だった。

上陸前に絨毯爆撃、艦砲射撃をメッタヤタラにやった。
だが米軍はまだバンカーバスター(地下貫通弾)は持ってなかった。
なので洞窟、地下壕にはほとんど効果なし。日本軍の火器は温存されていた。
結局、山岳戦に持ち込まれた。
谷間は洞窟、それらをつなぐ地下壕。トーチカだらけ、
大砲は洞窟から発射されるが、発射のあとは厚い鉄扉が閉じられる。
海兵隊は、全滅した日本軍とほぼ同じ1万人規模の戦死者、傷病者を出す。
アメリカにとっては衝撃的な失敗だった。

恐ろしい、凄惨な内容だ!映画にも動画にも出せないような場面がリアルに連なってる。
米軍、日本軍双方の砲撃と銃撃の挟間にあってクギ付けになって動けず。
砲弾でバラバラになった日本兵、アメリカ兵の腐乱した死体、手足、内臓、、、
巨大なウジだらけの体がゴロゴロしてる。
隠れるためにドロンコの水溜まり(砲撃の穴}の中を掘ったら、そこからも日本兵の
ウジだらけの死体が出てきた。数日、ときには10日以上も死体と同居してた。

第一次世界大戦の悲惨な塹壕戦と同じような戦場が太平洋戦争でもあったのだ。
そして今、ウクライナでも同じ事が現実に起きている、、、、愚かな人間

海戦、航空戦なら何十分、何時間で勝敗が決する。戦争ゲームみたいなもんだ。
だが地上戦、白兵戦、肉弾戦は何か月の単位で昼夜を分かたない持久戦、
目の前で次々に倒れる戦友を見て、募る日本軍兵士への激しい憎しみ、恐怖。
しかも日本軍の得意戦法「夜襲」への警戒で、眠られないら夜が続く。エンドレス、、、
その結果、「戦争神経症」つまり発狂して戦列を去るものも少なくない。

陸軍マッカーサーのレイテ島上陸作戦に対抗意識を燃やした海軍トップが
ペペリュー島の日本軍の地下壕要塞を甘く見たための失敗。
「3日で終わる」と豪語したが実際は2ケ月半もかかった。
しかも失敗を認めようとしないで応援も断った。
インパール作戦で失敗した牟田口参謀と同じことをやったのだ。

なのにアメリカ海軍は、そのあとの硫黄島でも地下要塞にてこずった。
さらに米軍の一方的勝利の印象が強い沖縄戦でも、首里城の地下壕要塞攻撃で
米軍は日本軍の死傷者の20%に相当する損失を出した。

ベリリューと沖縄の2つの作戦を転戦した彼の二百数十人の海兵隊仲間のうち、
生き残った古参兵はわずかに20数人。
わずかな訓練だけで本国から送り出されてきた若い補充兵の多くは、
不慣れな行動のせいで、たちまち倒れていった。
スレッジハンマー自身も、訓練当時は筋骨隆々の海兵隊員だったのに、
終盤では痩せ衰えた。米軍の体力も限界に近かったのだ。
民主国家のアメリカでは留守家族、議会から危惧の声が高まった。

そもそも日本は、広大な島嶼防衛は維持すら不可能だったのでは?
そして、南洋でいくつも起きた「島嶼戦」はアメリカにとって必要だったのか?

硫黄島ですら、占領目的としたB-29の緊急着陸というケースはたいしてなかった。
後続距離の短い戦闘機による本土への攻撃に硫黄島が使われただけだ。

既に日本軍のシーレーン(海上補給)は寸断され、制空権も米軍にあった。
島嶼の日本軍を放置しておいても攻撃される心配はなかったのでは?
事実、陸軍のマッカーサーは、日本軍が占領している島嶼のいくつかを無視した
「カエル飛び作戦」をやってフイリッピンのレイテ島上陸作戦を果たした。

もしも、戦友を殺された彼ら海兵隊が、そのまま日本を占領した連合軍の主力となっていたら、、、、
満州でソ連がやったのと同じことが、米軍によって起きていてたかも知れない。
だが幸いなことに、戦闘で疲弊した殺気立った海兵隊は、もはやその余力を失い、本国に引上げた。
日本占領連合軍の主体は、戦闘経験のない補充兵や、欧州戦線からの軍隊だったのだ。

アメリカの在郷軍人会も既に高齢化した。
「原爆を落とさずに本土決戦になれば米軍に50万人とも予測される戦死者が出たはずだ」
という主張は、島嶼戦での膨大な失敗に裏付けられたものだったのだ。
原爆投下への正当性の主張は消えてはいない。
日本への憎悪はパールハーバーの奇襲だけではなかったのだ。
地上戦の日華事変でも同じことが起きた。中国の日本への憎しみは消えていないのだ。

ついでにもう1冊読んだ。
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     「日本軍と日本兵、米軍報告書は語る」  一ノ瀬俊也著 講談社現代新書

多数の日本人捕虜を尋問した結果から、、、、
「日本兵は捕虜にならずに死を選ぶ」という通説は、東条英機の戦陣訓の
「生きて俘虜の辱めを受けるなかれ」を守ったからではなかった。

多くの日本兵は農民であり、村社会から送り出されて来た。
出征兵士の留守家庭は手不足で農業を継続できなくなる。
それは村全体として支援するという前提条件で出征した。
だから「自分が捕虜になったことが分かると、支援を打ち切られ、家族が生きていけない」
「自分が帰還しても村八分になる」という心配が強かったからだという。
一方で「見知らぬ土地へ帰還すれば、生きていける」とも考えていたと。

多くの兵士は「天皇のためにバンザイ突撃、玉砕をする」気などなかった。
軍隊内の命令、暴力制裁に縛られていただけだった。

都会出の兵士は、村社会の束縛もない。戦前にはアメリカ文化、洋画、洋楽のファンでもあった。
英語が分かる者も多い。なので「鬼畜米英」など信じてなかった。
高等教育を受けたインテリの多くは、戦争の早期段階で「アメリカに勝てるはずはない」
と思っていたと。

最前線で自分だけ降伏すること自体、非常に危険が伴った。
味方に後ろから撃たれるかも知れない。
それに中国で自分達がやった捕虜殺害の逆を恐れた。
多くの捕虜は戦場に取り残された傷病兵だった。

「アメリカ海兵隊員は捕虜を取らない」という通説はウソだった。
降伏してくる日本兵を信用して、逆にワナに掛かった例もあった。

アメリカ軍の参謀官僚としては出来る限り死傷者を減らさなければならない。
そこで出来る限り捕虜を保護し、待遇を改善し、情報を得るだけでなく、
日本語で投降を呼びかけさせるような協力者に仕立て上げた。

日本軍捕虜の多くは非常に協力的だった。
その背景は日本人の「借りたものは返す」「恩義に報いる」という信条だった。
命を救われたお返しとして積極的に協力したのだ!
捕虜をもとの陣地に送り返して、仲間を投降者として連れ帰るという試みまでやった。
意外なことに、この作戦はほぼ100%成功した!

参考までに、、、
私は、東京空襲の生き残りです。
昭和16年(1941年)生まれだから終戦の年には5歳弱。
だが不思議なことに戦争体験は鮮明に覚えている。

父親は、30才にして生まれた3ケ月の私を後に満州へ出征。
理由は軍需品の商社の支店長だったので「志願扱い」で行かされたのだ。

留守母子は、京急の「大森海岸」の近くの母の実家「海苔の網元」に居候した。
毎晩、電灯に黒い風呂敷を掛けた。「灯火管制」である。
空襲前日の晴天はるか上に、二筋の飛行機雲がきれいに見えた。B-29の偵察飛行だった。
その晩の空襲警報の「サイレン」  今でも甲子園野球で鳴るとドキッとする。止めてもらいたい。

「カビ臭い防空壕」に入った。あくる日、外に出たら、一面の焼野原、地面が熱かった。
羽田飛行場の向こうの海までズット見えた。
庭のほうぼうに六角形の焼夷弾(ナパーム)の抜け殻が積み上げられていた。
クズ屋に売ればカネになると。

焼失した実家をあとに真夏の炎天下、第一京浜国道(今のイチコク)を
京浜急行の「青物横丁」にあった、父親の勤務先を頼って母子3人で歩いた。
途中で歩けなくなった私だけ、後から来た「おじいさんの牛車」の後ろに乗せて貰った。
(母は馬の荷車だったというが)
だが居候させてもらった店舗も1週間後の空襲で焼けた。「疫病神だ!」と追い出された。

次に実家が住み移った「馬込」の東電のショールームだった店舗に移った。
家の中で消防団が焚火で暖を取ってたので、天井まで煤で真っ黒だった。
夜は「ホー、ホー」とフクロウの声が聞こえた。私はここで成人まで生活したが。

そこでも夜間に空襲警報が鳴って、「第二京浜」(今のニコク)に母子三人で逃げた。
「品鶴線」(今の新幹線)の土手の至るところが焼夷弾で燃えてるのを眺めてた。
国道を「三輪の消防車」が、力なくチンチンとン鳴らして通り過ぎた。
おぶわれた私の背中の「ドテラ」にも焼夷弾の油の雫が燃え移っているのを
2才上の姉が発見し、消し止めたので事なきを得た。

敗戦後、焼け跡の至る所にコスモスだけが元気に花を咲かせていた。
水道管の蛇口だけがポッツリ立っていて、水飲みには困らなかった。

飢餓が東京では大変だった。食べるものが何もない。
カタツムリを焚火に放り込んで食べた。コクがあって旨かった。
畑の中に野菜の「洗い場」があって、食用ガエル(ウシガエル)とアメリカザリガニが取れた。
ザリガニはフライパンで焼いたら、エビのように(知らなかったけど)旨かった。
だが母が「ジストマがいるからダメ」と禁止。
カエルも「かわいそう」と逃がされて食えなかった。

父親は敗戦後、シベリアの収容所で昭和24年まで生きていた。
ハガキが1枚来たが、そのときはもう現地で死んでいた。
母は戦争未亡人として、再婚するまで地域から差別された。

終わり








プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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