和船(その歴史)
厚ぼったい上下2巻の本を図書館で発見。 というか、昔、読んで途中で放棄した記憶が、、、
「和船」 Ⅰ巻、ⅱ巻 石井謙治著 法政大学出版局発行

表紙のデザインが何を意味するのか?分からない。
何で放棄したかというと、内容が海事、造船の関係者、船の歴史研究者向けなのだ。
私もかってはアマチュアヨットマンであり、ヨットの自作までやった船マニアの端くれであるが、
それでも専門的用語が飛び交う。
更には、、、、大正生まれの著者が駆使する「古語」「漢語}がツライ。
なにしろ話が古今和歌集、遣唐使船、壇ノ浦の戦い、信長の軍船、朝鮮出兵での海戦、
徳川300年、幕末、明治政府と、ものすごく長大だ。
だがこの本は和船のバイブルとして権威を持ったものであることは間違いない。
特に、文中で度々、同業の研究者をケナシているのがその証拠である。
更には、、、天下のNHKテレビが、リアルタイム・ドキュメンタリーで放映した
「北前船の復元と航海」までもボロクソに批判している。ある意味、痛快な文章である。
著者は、この業界では恐るるものなしの「ドン」なのかも?
この本で言う「和船」とは、、、、
年賀状に描かれる宝船、葛飾北斎、安藤広重の浮世絵版画に描かれた「弁材船」である。
ナニソレ? 千石船、樽前船、北前船、北国船、、なら知ってるけど?
いや、これらは用途と航路、細部仕様が異なるだけで呼び名が違うが、全て「弁材船」なのだ。
第1巻は、「弁材船がいかに優秀だったか」の礼賛に終始している。
1.櫓や櫂(ロ、カイ)を使わずにほとんど帆走でこなした。
2.オープンボート(水密甲板が無い)なので荷役が簡単、軽い貨物は高く積み上げた。
3.引上げ式の舵板を採用。荷役のため、避難のため、どこの浅い港でも砂浜でも入れた。
平底なので引き潮になっても転倒しない。船底を掃除出来た。
舵板の面積を巨大にしたので、「間切り」(ジグザグに風に向かう)回転が素早く出来た。
4.平底船、なおかつ横帆ではムリと言われた「詰め開き」(切り上がり、クローズホールド)
つまり風上に向かって最大60度くらいまで帆走できた。
理由は横帆にしては正方形なので「アスペクト比」が洋式帆船より大きかったから。
(同洋式横帆の練習船「日本丸」はの横帆は長方形。70度が限度。
現代ヨットは45度ぐらい。最新のレース艇は30度近くも風上に上れる)
竜骨(キール)の目的は横流れ防止の役割がある。
帆船は「デイープキール」つまり竜骨が深く水中にあったのでクローズ・ホールドが出来た。
現代ヨットはセンターボード、ダガーボード、フインキール、バラストキール、ウイングと、
次々に進化してきた。
ヘイエルダールの「コンテイキ号」もイカダの間にボードを挿し込んでだ。
弁材船はどうやったかと言うと、船首を鋭く、深く水中に入れた。
舵板の面積を巨大化させた。これで水中の側面積を広く分担させた。
だがこれは舵板の保持力が巨大になる。
これを解決するのに「バランスド・ラダー」にまで進化した!
舵軸に「根曲がり材」を使って舵板の前端ではなくて水圧中心にしたのだ、
4.大阪~江戸をノンストップで最短60時間で帆走した。セールエリアをドンドン大きくした。
(現代ヨットでもノンストップ3日間は厳しい)
だが、著者の弁材船の礼賛はヨット乗りから見ると非常にムリがある。
2項の、水密甲板を持たなかった点は致命的な欠点である。沿岸航海ですら危険だ。
向かい波では「水船」になって沈没する。
なので追い風になるまで「風待ち港」に待機した。
だが風待ちすると、再出港にまた手間がかかる。 船頭はムリする。悪循環だ。
オープンボートに甲板上まで目いっぱい荷を積み上げたなんて自殺行為だ。
トップヘビーで転覆する。荷は波浪でビショビショ!
当時の中国の「ジャンク」は水密甲板の上に、もう1層のスノコ状の甲板があった。
それを知っていたのに作る気なしだったのだ。
人命軽視、荷役経済性最優先!これが致命的欠陥だ。
きわめて多くの海難、沈没、漂流事故が発生した。神頼みの航海だ。
たしかに、バイキングシップだってオープンボートだった。
コロンブスが大陸を発見するずっと前に北米まで渡ったことが分かっている。
だが乗員のほぼ全てがオールを漕げる構造だ。大きな横帆とキールがあった。
細身の快速舟だ。船底にはバラストとして石を固定した。
荒天になれば、波が入らないように風に向かって必死で漕ぎまくったのだろう。
現代でも、オープンボートでの外洋横断の記録はいくつかある。
だがこれらは「ダブルボトム」だ。水密デッキが水面より上にある。
なおかつセルフベイラーやオープントランサムで自動排水が出来た。
3項の、引上げ式の舵板の脆弱性も非常に危険だ。無謀としかいえない。
舵のシャフト軸受けは上端にしかない。しかも半円の窪みだけ!
上端を支点にして半円に回転して引き上げるので下端に軸受けは無い。
舵板本体は左右のロープで引き寄せてる!
これでは荒天の追い波を受けたら外れる、暴れて壊れることマチガイなし。
たしかに現代の小型ヨット(デインギー)にも「キックアップラダー」がある。
だがシャフトの軸受けは上下2ケ所にある。下端を支点にはね上がるから強固である。
4項の、リーウエイ対策の舵板面積の拡大は、側面積が船首と船尾に集中するので
かえって旋回性を悪くする。保舵力も過大になる。バランスドラダーにしても強度は不足する。
現代ヨットのバラストキールやフインは船体中心にあるので旋回性を妨げない。
かっての中世には日本中にローカルな船種、船型があった。
だが秀吉の朝鮮出兵に伴う大量造船を迎えて困り、それらの統一化が進んだ。
さらに江戸幕府の確立により、大規模城下町ブームとなり、建築材料としての木材、
食材、酒、綿花、、もろもろの流通機構が発展した。
だが船は相変わらず櫓、櫂(ロ、カイ)で推進するものばかり、帆走は補助だった。
多数の水主(カコ)つまり奴隷のような漕ぎ手を必要とした。これでは大型化すらままならない。
そこで、帆走主体で航海で来るように帆を巨大化したりして改良が進められた。
それが元禄の頃に完成形になった弁材船なのである。
でも船型自体はほとんど変わっていない。
勿論、出入港には櫓を必要としたが、あくまで航海中は帆走となった。
和船の技術的最盛期、最終期は徳川300年の鎖国時代だった。
そもそそも鎖国という呼び方は明治以降に現れた!なぜか?
明治政府は、江戸幕府の政治を全面否定したかった。
「寺社廃仏」とかヒドイことをやった。だから鎖国という言葉を使った。
鎖国と言えばオランダ以外は全く諸外国を受け付けないと思われてきた。
そんなことはない。キリスト教の弾圧、密貿易の取り締まりとかはあったが、
朝鮮半島はもとより、中国、台湾、フィリピン、ベトナム、その他、、、
東南アジア各国との交易は普通に行っていた。欧州各国ともオランダを通じてやってた。
いろんな欧州人も来日して、徳川幕府の上部と接触していた。
黒船来航も唐突ではなかった。幕府はあの大型帆船の知識はあった。
和船も明治政府から全面拒否された。だが昭和の初めまで普通に就航してた。
「幕府が構造を制限したために、和船は海外渡航できる性能、構造、耐久性を失った」
と喧伝されてきた。事実、私もそう習ってきた。
幕府のご禁令は、、、
1.外洋航行可能な巨大船は作ってはならない。
2.波浪の浸水を防ぐ「水密甲板」を設けてはならない。
3.強度、耐航性を高める「竜骨」(キール)を設けてはならない。
だが、こんな禁令は存在しなかったのだ。
木造巨大船のサイズの限界が出来たのは経済的な理由だった。
天災、飢餓、大火のときは積荷が減って廃船したり、小さくなる。
だがその後の復興景気にははドンドン巨大化させて省力化をやった。
その繰り返し、まるで現代の運用業界みたいなもんだ。
確かに和船は川船から発展し、平底ではあった。だが強度は厚板を使って十分だった。
その上、平底の外に縦通材を通して竜骨の役目をさせていた。
日本の天候は、世界的にも稀なくらい変化が激しい。
有名な北前船、北国船などの日本海の航路は、実は冬の季節風が吹き荒れる
冬季12月から3月まで完全に禁止されていた。
このことは一般にはほとんど知られていない。
冬の季節風が日本アルプスの脊嶺で遮られる太平洋側といえども、
新幹線が毎冬、雪で止まる名古屋、米原あたりは同じように危険だった。
富士山からの吹きおろしも強かった。伊勢、志摩、御前崎あたりは海難の名所だ。
秋になると日本海を低気圧が通り、太平洋側は数日の間、西の強風が続く。
これは「大西」と呼んで恐れられた。台風だって、全く予期できない時代だった。
だが大消費地の江戸への物流は止められない。
江戸っ子は、1人当たり毎日1合の酒を飲んだ!灘の新酒が来なければ困る。
命を懸けても廻船問屋は儲かった。有名な紀伊国屋文左衛門の世界だ。
船頭は最短距離をノンストップ航海。当然、どこかで荒天に捕まる。
最後に和船を見たのはいつだったか?
戦時中、4歳のときに日本橋の水天宮近くに居候してた。
近くの橋へ行って下を見下したら、川底が見えるほど澄んでいた。
大きな和船が抜けていったのを今でも覚えている。
1本の長い櫓(ロ)を高齢の夫婦2人してゆったりと漕いでいた。
櫓船は必ず左右に揺れるはずなのに揺れてなかった。
多分、あまりに和船が大きかったからだろう。
そのあとすぐに東京大空襲!あの夫婦はどうなったのだろうか、、、
敗戦直後、祖父が羽田で再び海苔養殖を再開しようと、「焼き玉エンジン付き」の和船を新造した。
舟卸し(進水)に連れてってくれた。
フネが水に浸かると同時に、舷側の杉板の節(フシ)がスポンと抜けて水が噴き出した!
船大工は少しも慌てず、丸い木栓をポンポンと打ち込んで、ノミで頭を切り落としてオシマイ、
鮮やかだった。焼き玉エンジンは不調で、とうとう始動しなかったが。
その舟で羽田沖で海水浴に連れて行ってくれたこともある。
岸は焼野原だったが、やはり水中の魚が見えるほど水が澄んでいた。
昭和30年代には東京湾の運河に水上生活者が何所帯もいた。
ダルマ船と呼ばれる動力無しの「ハシケ」の和船の中で生活し、そのフネで荷役作業を請け負ってた。
昭和50年代でもダルマ船は係留されていた。
日本の巨大木造船が絶滅したのは、いつ頃だったのか?
私が最後に見たのは35年前、伊勢湾の「佐久島」の東側の廃港に朽ち果てた巨大木造漁船と、
東京の「悲劇の福竜丸保存博物館」だった。でもあれは「和船」ではなくて「木造洋船」である。
こんな巨大な木造構造を、よくもまあ作れたものだ。
しかも脆弱なこの船に乗って遠洋漁業に出たのだ。先人はスゴイ!命知らずだったのだ。
話を戻して、、、千葉の館山新市「海の博物館」へ行けば、本物の「和船」(弁材船)が見れる。
いつもハイテンションな「サカナクン」!で有名なスポットだ。
ただし小型漁船、中型漁船ではあるが貴重なコレクションである。
私が50年以上前、30代で背骨骨折、100日も入院した横須賀の金沢病院の話だけど、、、
隣のベッド仲間は能登半島は「七尾」の出身で50代の純朴、温厚な元漁師だった。
造船所で働いていたが、天井クレーン操作マンのミスにやられて、移動してきた鉄骨が
止まり切れずに大きく揺れて彼を直撃、骨盤骨折に!
看護にやってくる奥さんは同郷の美人だった!退院は私よりやや早かった。
だから何なの?いや、別に、、、、
彼は毎日、能登半島での過酷な漁師生活を話してくれた。
沖の漁場小さなエンジン無しの木造船でタイ釣りに行く。
3時間も櫓を漕ぎ続けて釣り場に到着1そして一本釣り。
帰りは、運が良ければ帆に追い風を受けて楽に帰航できた。
だが、、、運が悪いと強風にやられる。その時は帆柱を切り倒して運を天に任せて漂流。
毎年、海難で漁師は何人も死んだ。それが怖くて横須賀に働きに出てきた。
でも当時の都会の工場でも安全ではなかった。
「命と交換、日本鋼管!」などと揶揄されるほど、造船所の人身事故も多かったのだ。
木造船は使わないときは浜に引き上げて乾かす。乾けばスキマだらけ。
海に下せばジャジャ漏れ!だがすぐに木が膨らんで水漏れが無くなっていく。
実に原始的だった。
海水は淡水よりもバクテリアの攻撃は少ない。だが、雨が降ればバクテリアで腐っていく。
なので高級木造ヨットは、人を雇ってでも常に甲板回りにニス塗りを怠らなかった。
大変な出費である。だから日本では高級木造ヨットは絶滅した。
さてと、、、木造船とFRPプラスチック船は、どちらが重いか?
大抵の人は「木のほうが軽い」と言う。だが実際はプラスチック船のほうがはるかに軽い!
そのおかげでプラスチック漁船は「滑走」(プレーニング)すら出来るようになった。
ピンポン玉である。
いっぽう、外板が薄く出来るプラスチック船は「パンチング」(波当たり)には弱い。
今にも潰れそうな音を出す。
実際、モーターボートみたいに高速だと波頭から落ちて亀裂が出来る。
いっぽう、木造船はやたら厚い板なのでヘッチャラ。ただし今にも壊れそうなキシミ音を出す。
書きかけです。
「和船」 Ⅰ巻、ⅱ巻 石井謙治著 法政大学出版局発行

表紙のデザインが何を意味するのか?分からない。
何で放棄したかというと、内容が海事、造船の関係者、船の歴史研究者向けなのだ。
私もかってはアマチュアヨットマンであり、ヨットの自作までやった船マニアの端くれであるが、
それでも専門的用語が飛び交う。
更には、、、、大正生まれの著者が駆使する「古語」「漢語}がツライ。
なにしろ話が古今和歌集、遣唐使船、壇ノ浦の戦い、信長の軍船、朝鮮出兵での海戦、
徳川300年、幕末、明治政府と、ものすごく長大だ。
だがこの本は和船のバイブルとして権威を持ったものであることは間違いない。
特に、文中で度々、同業の研究者をケナシているのがその証拠である。
更には、、、天下のNHKテレビが、リアルタイム・ドキュメンタリーで放映した
「北前船の復元と航海」までもボロクソに批判している。ある意味、痛快な文章である。
著者は、この業界では恐るるものなしの「ドン」なのかも?
この本で言う「和船」とは、、、、
年賀状に描かれる宝船、葛飾北斎、安藤広重の浮世絵版画に描かれた「弁材船」である。
ナニソレ? 千石船、樽前船、北前船、北国船、、なら知ってるけど?
いや、これらは用途と航路、細部仕様が異なるだけで呼び名が違うが、全て「弁材船」なのだ。
第1巻は、「弁材船がいかに優秀だったか」の礼賛に終始している。
1.櫓や櫂(ロ、カイ)を使わずにほとんど帆走でこなした。
2.オープンボート(水密甲板が無い)なので荷役が簡単、軽い貨物は高く積み上げた。
3.引上げ式の舵板を採用。荷役のため、避難のため、どこの浅い港でも砂浜でも入れた。
平底なので引き潮になっても転倒しない。船底を掃除出来た。
舵板の面積を巨大にしたので、「間切り」(ジグザグに風に向かう)回転が素早く出来た。
4.平底船、なおかつ横帆ではムリと言われた「詰め開き」(切り上がり、クローズホールド)
つまり風上に向かって最大60度くらいまで帆走できた。
理由は横帆にしては正方形なので「アスペクト比」が洋式帆船より大きかったから。
(同洋式横帆の練習船「日本丸」はの横帆は長方形。70度が限度。
現代ヨットは45度ぐらい。最新のレース艇は30度近くも風上に上れる)
竜骨(キール)の目的は横流れ防止の役割がある。
帆船は「デイープキール」つまり竜骨が深く水中にあったのでクローズ・ホールドが出来た。
現代ヨットはセンターボード、ダガーボード、フインキール、バラストキール、ウイングと、
次々に進化してきた。
ヘイエルダールの「コンテイキ号」もイカダの間にボードを挿し込んでだ。
弁材船はどうやったかと言うと、船首を鋭く、深く水中に入れた。
舵板の面積を巨大化させた。これで水中の側面積を広く分担させた。
だがこれは舵板の保持力が巨大になる。
これを解決するのに「バランスド・ラダー」にまで進化した!
舵軸に「根曲がり材」を使って舵板の前端ではなくて水圧中心にしたのだ、
4.大阪~江戸をノンストップで最短60時間で帆走した。セールエリアをドンドン大きくした。
(現代ヨットでもノンストップ3日間は厳しい)
だが、著者の弁材船の礼賛はヨット乗りから見ると非常にムリがある。
2項の、水密甲板を持たなかった点は致命的な欠点である。沿岸航海ですら危険だ。
向かい波では「水船」になって沈没する。
なので追い風になるまで「風待ち港」に待機した。
だが風待ちすると、再出港にまた手間がかかる。 船頭はムリする。悪循環だ。
オープンボートに甲板上まで目いっぱい荷を積み上げたなんて自殺行為だ。
トップヘビーで転覆する。荷は波浪でビショビショ!
当時の中国の「ジャンク」は水密甲板の上に、もう1層のスノコ状の甲板があった。
それを知っていたのに作る気なしだったのだ。
人命軽視、荷役経済性最優先!これが致命的欠陥だ。
きわめて多くの海難、沈没、漂流事故が発生した。神頼みの航海だ。
たしかに、バイキングシップだってオープンボートだった。
コロンブスが大陸を発見するずっと前に北米まで渡ったことが分かっている。
だが乗員のほぼ全てがオールを漕げる構造だ。大きな横帆とキールがあった。
細身の快速舟だ。船底にはバラストとして石を固定した。
荒天になれば、波が入らないように風に向かって必死で漕ぎまくったのだろう。
現代でも、オープンボートでの外洋横断の記録はいくつかある。
だがこれらは「ダブルボトム」だ。水密デッキが水面より上にある。
なおかつセルフベイラーやオープントランサムで自動排水が出来た。
3項の、引上げ式の舵板の脆弱性も非常に危険だ。無謀としかいえない。
舵のシャフト軸受けは上端にしかない。しかも半円の窪みだけ!
上端を支点にして半円に回転して引き上げるので下端に軸受けは無い。
舵板本体は左右のロープで引き寄せてる!
これでは荒天の追い波を受けたら外れる、暴れて壊れることマチガイなし。
たしかに現代の小型ヨット(デインギー)にも「キックアップラダー」がある。
だがシャフトの軸受けは上下2ケ所にある。下端を支点にはね上がるから強固である。
4項の、リーウエイ対策の舵板面積の拡大は、側面積が船首と船尾に集中するので
かえって旋回性を悪くする。保舵力も過大になる。バランスドラダーにしても強度は不足する。
現代ヨットのバラストキールやフインは船体中心にあるので旋回性を妨げない。
かっての中世には日本中にローカルな船種、船型があった。
だが秀吉の朝鮮出兵に伴う大量造船を迎えて困り、それらの統一化が進んだ。
さらに江戸幕府の確立により、大規模城下町ブームとなり、建築材料としての木材、
食材、酒、綿花、、もろもろの流通機構が発展した。
だが船は相変わらず櫓、櫂(ロ、カイ)で推進するものばかり、帆走は補助だった。
多数の水主(カコ)つまり奴隷のような漕ぎ手を必要とした。これでは大型化すらままならない。
そこで、帆走主体で航海で来るように帆を巨大化したりして改良が進められた。
それが元禄の頃に完成形になった弁材船なのである。
でも船型自体はほとんど変わっていない。
勿論、出入港には櫓を必要としたが、あくまで航海中は帆走となった。
和船の技術的最盛期、最終期は徳川300年の鎖国時代だった。
そもそそも鎖国という呼び方は明治以降に現れた!なぜか?
明治政府は、江戸幕府の政治を全面否定したかった。
「寺社廃仏」とかヒドイことをやった。だから鎖国という言葉を使った。
鎖国と言えばオランダ以外は全く諸外国を受け付けないと思われてきた。
そんなことはない。キリスト教の弾圧、密貿易の取り締まりとかはあったが、
朝鮮半島はもとより、中国、台湾、フィリピン、ベトナム、その他、、、
東南アジア各国との交易は普通に行っていた。欧州各国ともオランダを通じてやってた。
いろんな欧州人も来日して、徳川幕府の上部と接触していた。
黒船来航も唐突ではなかった。幕府はあの大型帆船の知識はあった。
和船も明治政府から全面拒否された。だが昭和の初めまで普通に就航してた。
「幕府が構造を制限したために、和船は海外渡航できる性能、構造、耐久性を失った」
と喧伝されてきた。事実、私もそう習ってきた。
幕府のご禁令は、、、
1.外洋航行可能な巨大船は作ってはならない。
2.波浪の浸水を防ぐ「水密甲板」を設けてはならない。
3.強度、耐航性を高める「竜骨」(キール)を設けてはならない。
だが、こんな禁令は存在しなかったのだ。
木造巨大船のサイズの限界が出来たのは経済的な理由だった。
天災、飢餓、大火のときは積荷が減って廃船したり、小さくなる。
だがその後の復興景気にははドンドン巨大化させて省力化をやった。
その繰り返し、まるで現代の運用業界みたいなもんだ。
確かに和船は川船から発展し、平底ではあった。だが強度は厚板を使って十分だった。
その上、平底の外に縦通材を通して竜骨の役目をさせていた。
日本の天候は、世界的にも稀なくらい変化が激しい。
有名な北前船、北国船などの日本海の航路は、実は冬の季節風が吹き荒れる
冬季12月から3月まで完全に禁止されていた。
このことは一般にはほとんど知られていない。
冬の季節風が日本アルプスの脊嶺で遮られる太平洋側といえども、
新幹線が毎冬、雪で止まる名古屋、米原あたりは同じように危険だった。
富士山からの吹きおろしも強かった。伊勢、志摩、御前崎あたりは海難の名所だ。
秋になると日本海を低気圧が通り、太平洋側は数日の間、西の強風が続く。
これは「大西」と呼んで恐れられた。台風だって、全く予期できない時代だった。
だが大消費地の江戸への物流は止められない。
江戸っ子は、1人当たり毎日1合の酒を飲んだ!灘の新酒が来なければ困る。
命を懸けても廻船問屋は儲かった。有名な紀伊国屋文左衛門の世界だ。
船頭は最短距離をノンストップ航海。当然、どこかで荒天に捕まる。
最後に和船を見たのはいつだったか?
戦時中、4歳のときに日本橋の水天宮近くに居候してた。
近くの橋へ行って下を見下したら、川底が見えるほど澄んでいた。
大きな和船が抜けていったのを今でも覚えている。
1本の長い櫓(ロ)を高齢の夫婦2人してゆったりと漕いでいた。
櫓船は必ず左右に揺れるはずなのに揺れてなかった。
多分、あまりに和船が大きかったからだろう。
そのあとすぐに東京大空襲!あの夫婦はどうなったのだろうか、、、
敗戦直後、祖父が羽田で再び海苔養殖を再開しようと、「焼き玉エンジン付き」の和船を新造した。
舟卸し(進水)に連れてってくれた。
フネが水に浸かると同時に、舷側の杉板の節(フシ)がスポンと抜けて水が噴き出した!
船大工は少しも慌てず、丸い木栓をポンポンと打ち込んで、ノミで頭を切り落としてオシマイ、
鮮やかだった。焼き玉エンジンは不調で、とうとう始動しなかったが。
その舟で羽田沖で海水浴に連れて行ってくれたこともある。
岸は焼野原だったが、やはり水中の魚が見えるほど水が澄んでいた。
昭和30年代には東京湾の運河に水上生活者が何所帯もいた。
ダルマ船と呼ばれる動力無しの「ハシケ」の和船の中で生活し、そのフネで荷役作業を請け負ってた。
昭和50年代でもダルマ船は係留されていた。
日本の巨大木造船が絶滅したのは、いつ頃だったのか?
私が最後に見たのは35年前、伊勢湾の「佐久島」の東側の廃港に朽ち果てた巨大木造漁船と、
東京の「悲劇の福竜丸保存博物館」だった。でもあれは「和船」ではなくて「木造洋船」である。
こんな巨大な木造構造を、よくもまあ作れたものだ。
しかも脆弱なこの船に乗って遠洋漁業に出たのだ。先人はスゴイ!命知らずだったのだ。
話を戻して、、、千葉の館山新市「海の博物館」へ行けば、本物の「和船」(弁材船)が見れる。
いつもハイテンションな「サカナクン」!で有名なスポットだ。
ただし小型漁船、中型漁船ではあるが貴重なコレクションである。
私が50年以上前、30代で背骨骨折、100日も入院した横須賀の金沢病院の話だけど、、、
隣のベッド仲間は能登半島は「七尾」の出身で50代の純朴、温厚な元漁師だった。
造船所で働いていたが、天井クレーン操作マンのミスにやられて、移動してきた鉄骨が
止まり切れずに大きく揺れて彼を直撃、骨盤骨折に!
看護にやってくる奥さんは同郷の美人だった!退院は私よりやや早かった。
だから何なの?いや、別に、、、、
彼は毎日、能登半島での過酷な漁師生活を話してくれた。
沖の漁場小さなエンジン無しの木造船でタイ釣りに行く。
3時間も櫓を漕ぎ続けて釣り場に到着1そして一本釣り。
帰りは、運が良ければ帆に追い風を受けて楽に帰航できた。
だが、、、運が悪いと強風にやられる。その時は帆柱を切り倒して運を天に任せて漂流。
毎年、海難で漁師は何人も死んだ。それが怖くて横須賀に働きに出てきた。
でも当時の都会の工場でも安全ではなかった。
「命と交換、日本鋼管!」などと揶揄されるほど、造船所の人身事故も多かったのだ。
木造船は使わないときは浜に引き上げて乾かす。乾けばスキマだらけ。
海に下せばジャジャ漏れ!だがすぐに木が膨らんで水漏れが無くなっていく。
実に原始的だった。
海水は淡水よりもバクテリアの攻撃は少ない。だが、雨が降ればバクテリアで腐っていく。
なので高級木造ヨットは、人を雇ってでも常に甲板回りにニス塗りを怠らなかった。
大変な出費である。だから日本では高級木造ヨットは絶滅した。
さてと、、、木造船とFRPプラスチック船は、どちらが重いか?
大抵の人は「木のほうが軽い」と言う。だが実際はプラスチック船のほうがはるかに軽い!
そのおかげでプラスチック漁船は「滑走」(プレーニング)すら出来るようになった。
ピンポン玉である。
いっぽう、外板が薄く出来るプラスチック船は「パンチング」(波当たり)には弱い。
今にも潰れそうな音を出す。
実際、モーターボートみたいに高速だと波頭から落ちて亀裂が出来る。
いっぽう、木造船はやたら厚い板なのでヘッチャラ。ただし今にも壊れそうなキシミ音を出す。
書きかけです。
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