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「水車、風車、機関車」

書きかけです!
画像がうまく取り込めないので小さいのはクリックしてください。大きくなります。


また図書館の本です。
300ページ超の厚さ、モノクロ図版と難解な説明文は何度か読み直さないと理解できない。
だが読み直していくうちに、トンデモなく膨大なテーマがぎっしり詰まっていることが分かる。
サブタイトルの「機械文明発生の歴史」が正しい。

今では全く当り前の、数々の「機械要素」が、ドイツ、オランダの水車、風車、
スイスの木製時計、馬車、などによっていかに完成されてきたかを説明している。
例えば製鉄に必要なフイゴ、圧延機も、針金のブローチング(引き伸ばし)も水車で回された。
なお、SL機関車についてはわずかしか触れてない。
その代わり、蒸気機関の耕運機!つまりトラクターについて詳しく書かれている。

坂井州二著 法政大学出版部発行
機械文明発生の歴史
宮崎駿のアニメ「ハウルの動く城」ソックリの絵だ!
風上に向けるために風車小屋が360度回転する構造。強風で折れそう。

この本の著者の言いたいことは、、、
日本人は、黒船が現れて突然、西欧の機械文明に触れた。
そして日本人は出来上がったそれらの物を、そのまま大いに利用してきた。
だが機械というものは古代文明から中世の西欧文明を経て、連綿と進化を遂げてきた。
貴重な歴史のあるものなのだということを理解せよ、ということらしい。

日本は江戸時代の鎖国で発明や個人の工夫の全てを禁じられた。
わずかに「カラクリ人形」が残っているだけ。
平安貴族の牛車を荷車に転用することすら一時は禁じられ、
とうとう馬車には発展しなかった。
だから人間が歩ける道しか発達せず、「クルマの通る道路」がなかった。
敗戦後にマッカーサーから「日本には(舗装)道路が無い」とまで言われた。
もし江戸幕府の過酷な政策さえなかったなら日本も、きっと機械文明の創造に
参画できたであろう。徳川の鎖国は日本の自由文明を迫害したのだ。
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ただし、江戸時代でも庶民は多少の工夫、発明はしてきた。
これはコンベア式揚水機かな。

ここでは別の本でも聞きかじった雑学を交えて整理してみよう。

ある「パソコンの冷却設計」の本では、、、、
従来、文明の三大発明は、火薬、羅針盤、活版印刷とされているが、
最新説は、ネジ、ギア、ヒートパイプ、らしい。ヒートパイプ? ナニソレ?

「ヒートパイプ」とは最新のノートパソコンなどの内部冷却のためにされている優れモノだそうだ。
アルミパイプの細管にわずかに水を入れ、両端を潰して密閉しただけ。
一端を熱い基盤に触れさせると、内部で蒸発した水分が気化熱を奪い冷却する。
そしてパイプの反対側へ移動して再凝結して戻ってくる。ミニュチュアのヒートポンプだ。
そういえば昔の夜店でロウソクで動く「ポンポン蒸気船」を売ってた。
あれと同じ原理じゃないの?

私は、レオナルド・ダビンチが提案した「クランク」を3番目の発明品としたい。
古いロクロは弓の弦に巻き付けては戻す、縄文時代の火起こし器そのものだった。
クランクは、足踏みミシンのように連続回転させることが出来ることで画期的だった。
だがクランクが実用化されたのは、なんとダビンチの150年後だった。。
理由は、クランクだけは木製では実用困難で、高価な鉄が必要だったから。
そしてとうとう、ピストンエンジンのクランクシャフトにまで進化した。
クランク、フライホイール・ベルト駆動
クランクはフライホイール(はずみ車)が無いと回らない。水車自体はその役目も兼ねている。

巨大木製歯車兼フライホイール
いっぽう、クランクを用いて鋸を上下させる水車による製材機は、ずっと遅くに出現した。
バンドソーと丸鋸の発明は近代まで出てこない。
理由は、強靭な鋼が安価に出現するのを待たねばならなかったからだ。

木製歯車が摩耗するので、ベルトドライブも発明された。
これにより1つの動力源から複数に動力を振り分けることができた。
昭和の町工場の旋盤は全てベルトドライブだった!懐かしい。


もう1つ、この本とは別だが、古代文明で、稲と麦が選択された理由は、、、、
実ってもタネが地面に落ちなかったからだと!?
あらゆる穀物は熟せばタネは地面に落ちるのが当然。だがそれは収穫が出来ない。
ナルホド。     実ってもタネが落ちないように、人間が品種改良したらしい。

それはさておき、原点に返るが、、、、米と麦の違いとは、、、
    1.米は田んぼで作る。なので雨の多い、温暖な東洋で発展した。
      田んぼには水が常に流れ込むので、常に肥料分、ミネラルが供給される。
      僅かな肥料を足すだけで生育する。
      なので「連作障害」が出ない。脱穀すればそのまま炊いて食べられる。

    2.麦は畑で作る。なので寒くて雨が不足する欧州、中近東で発展した。
      「連作」が出来ない。大量の肥料が毎年、必要。肥沃な大地でないとダメ。
      毎年、植える畑を移動しなければ収量がドンドン低下する。
      脱穀しても「もみがら、籾殻」が食い込んでて、完全に剥がれない。炊いてもマズイ。
      製粉してパンにしなければならない。必ず臼が必要。
      ナポレオンの軍隊には石臼とパン焼き職人が同行した!

麦といっても4種類ある、米と違うのはもみ殻に相当する「薄皮」が取れないこと。
 1.小麦(パン、餅としても食べた、石臼で挽けば薄皮も分離できた)
 2.大麦(ビールの麦芽) 裸麦(麦飯、真ん中に取れない薄皮がある)
 3.ライ麦(黒パン、取れない籾殻混じりか?)
 4.燕麦(オート-ミール、脂肪分が多い)
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麦を粉にするには石臼が必要、石臼は川があれば水車で回した。ため池も作った。
山の中の農家は自家用の水車が必要。村には必ず大きな粉屋(裕福だった)があった。
常に風の強い地方では風車で回した。
水も風もないところでは馬で引き回させた。

その他の機械要素の発明としては、、、

1.円筒、ネジ
 これを実用化するには旋盤、ボール盤が必要。
 西欧では古代に既に旋盤の原理が出現していた。ロクロである。
 最初は回転が交互に入れ替わる「縄文火おこし機」のようなものだったが、
 クランクや水車で常に同一回転で回す構造にできた。
 円柱に穴開けして円筒も作られた。水道管は丸太の中心にドリルで軸穴を明けて作った。
 それが銃や大砲に発展した。
 なので古代、中世の家具、建築は「飾り円柱」だらけだ。

 これに対して日本では円柱と言えば木地屋のコケシや陶芸のロクロ程度で終わった。
 水道管は丸太を2つ割りして、中をくり抜いてから再び合わせた。
 ネジも円筒も、日本では種子島の火縄銃で初めてお目にかかった。
 当時は銃身や、銃尾のネジの作り方すら分からなかった。
 
 チョット待って! だったら法隆寺の丸い柱は?
 あれは角材を、だんだん多角形に削って、最後にサンドペーパー磨きしたのかな?

2.ウインチ(ろくろ) 
 これも円柱の賜物である。
 古代から東洋にも人力、畜力のウインチ(ロクロ)があった。
 江戸時代でも、砂浜へ漁船を引き揚げる「お神楽さん」と呼ばれたウインチがある。

3.歯車
 当然、近世まで木製の歯車だった。
 ダビンチも歯車を書いてる。中世の水車、風車は歯車だらけ。
 ギアレシオも複数の歯車で自由に変えていた。
 水平軸の回転を垂直に変えられた。木製のスパーギア、ベベルギア、何でもできた。
 スイスの木製時計は歯車だらけなのは周知の通りだ。

 いっぽう、日本の水車に歯車は無かった。すべて「バッタラ」(後述するが)だけだった。
 ラック・アンド・ピニオンや、ウオーム・アンド・ピニオンは、製材を前後に
 移動するのに発明された。
 自動車のステアリング機構はまさしくこれらで成り立っている。

4.ブロック(滑車)
 帆船はブロックだらけだった。出現したもっと昔はどこまで遡れるのか?

5.スラストベアリング
  風車の頭だけ風向き方向に回転させる「帽子風車」で出現した。
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6,スクリューポンプ
 これはオランダ風車の揚水機として実用化されてる。
 水車を逆転させるタイプの揚水ポンプは馬で引き回させたものがあった。
スクリュー式揚水ポンプ

7.鹿おどし
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  鹿おどしの米つき機、製粉機は日本にも昔からあった。
  製材機の場合は「バッタラのこぎり」と呼ぶそうだ。
  なのでこれはどうも東洋から伝わった機構ではないか?と言われている。
  バッタラは鍛冶屋の水力ハンマーとして使われた。

8.唐箕、足踏み脱穀機
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  ブロワーの風力で米、麦の実と籾殻をふるい分けるのが全木製の唐箕。
  ドラムに鉄の角を植えて足で回転させて脱穀するのが足踏み脱穀機。
  実は、これらは日本の発明ではなかった!
  西欧で、とっくの昔に麦の脱穀のために発明されていたのだ。

クラッチは動力を断続する需要な機械要素だが、いつ頃、発明されたのか?分からない。

驚いたことにワットの蒸気機関車より230年も以前に、農耕用の自走トラクターの
特許が出ていた。でも実用化されたのは蒸気機関車と前後したけど。

かきかけです




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ナマショク(生食)の話

東西ドイツ統合(1990年)の頃の話だから、もう30年以上前になったけど。
仕事がらみで、毎年のように入れ替わり立ち代わり来日する西ドイツの試験機関の
連中と仲良くなった。といってもドイツ語は全くダメ、
当方は中学生英語!のブロークン・イングリッシュ。向こうはドイツ語なまりの英語?
という珍妙なお付き合い。勿論、通訳として社内の帰国子女が付いていたが、
不思議なことに英語が分からない小生のほうが便利がられた。

毎回、彼らは昼食時にいろんな話題を持ってくる。
「統一したけど旧東ドイツの連中は寄生虫だ!」「ビンボー人ばかりだ」
「難民、移民をガンガン受け入れる今のドイツ政府はなっとらん!」
「治安がドンドン悪くなってる」「日本も外国人労働者を受け入れてるけど、今に泣くぞ」
おみやげに「東西ドイツの壁」を破壊したコンクリ破片をくれた。
「放射能物質が入ってるかもよ」と。そんなもの要るか!

「日本は、なんで踏切で一時停車するのか?危ない!」
ドイツでは踏切が開いてれば絶対に止まってはならない。止まったら追突される。
「ガソリンスタンドでは自分で入れないのか?ドイツはセルフばかりだ!」
当時の日本にはセルフは皆無だった。
ホームレスを説明できなくて苦し紛れに「ルンペンだ」と言ったら大当たり!
ルンペンはドイツ語だったのだ。

ある時の話題は、、、、
「日本文化の刺身は食中毒が問題だ」と。  ナニソレ?
欧米では日本食、寿司の大ブームが起きてた時代だった。
ところがドイツでは今、「魚を生で食うと大変なのだ」というニュースで持ち切りだそうだ。

あー、アニサキスね。サバ寿司でも食わない限り大丈夫ですよ.

「そうじゃない!どんな魚でもナマは危ないのだ!」  
そんなわけない。日本人は昔から新鮮な魚は刺身で食ってきた.

自分で釣った魚ならたいてい刺身で食ってたが何ともなかったぞ。
だったらオランダのニシンの生食はどうなんだ?
「あれは長く酢に漬けてあるからOKだ」
ウソつけ!酢でアニサキスは死なない、と大論争に。

この頃から身近にアニサキスにやられた話が増え始めた気がする。
といっても当人は「怪しい飲食店に出入りしてたんだ」と思われるので話したがらない。
そうこうしてるうちにスーパーに並んだサンマにまで、「これは解凍品です」とか、
「これは冷凍してないのでアニサキスが居る可能性があります」と表示される時代になった。
段々。分からなくなってきた。そこで図書館で本を見付けた。

     生食(なましょく)のはなし、リスクを知っておいしく食べる」  朝倉書店

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結論から先に言うと、、、「何でこういうことは学校では教えないのか!」
内容は中学生、いや小学生高学年なら十分理解できる。
ユッケを食って集団食中毒が起きるということは、学校で生食の怖さを教わって
なかったためだ。

食中毒の発生統計は、規制の変化に伴って年を追うごとに変化する。
その食材の流通量や産地が大きく変われば食中毒も増える。
だからこれまで問題ないナマ食材が、ある時突然、大問題になる。
サバのアニサキスは太平洋には多いが日本海には少ない。
同様に、食材の処理技術にも地方性がある。
つまりナマ食材は、潜在的に見れば日本中、全て危険なのだ!

まあ、敗戦直後の時代だったら仕方がないが。
何にしろあの頃は赤痢も、疫痢も、腸チフスも、何でもありだったからね。
人類は火を使うことで、食中毒からの死亡率が劇的に下がった。
その結果、他の動物よりはるかに繁栄してきた。
生食は進化に対する退歩である。

この本は読めば読むほど食中毒の奥が深いことがよく分かる。
だが専門的、網羅的なのでメンドクサイ。
なので私の体験談と、プラス独断と偏見で知りたいことだけ都合よく羅列してみよう。

1.牛肉(腸管出血性大腸菌、カンピロパクター、E型肝炎)

牛は草食なので、豚ほど危険ではない。だからといって生食はあり得ない。
ビフテキはレアでも大丈夫、なぜか?
筋肉の内部には細菌は居ない。だから外側だけに付着してる細菌を加熱することで殺せばいい。
細菌がいるのは内臓だ。食肉処理の段階で。それが筋肉の表面に付着するのは完全に防げない。

「ユッケ」とかいう牛のレバーの生食中毒が大発生!そんなものをナマで食うのか?
心臓の刺身?牛刺し、牛タタキ、牛タルタルステーキ、、、いい加減にしろと言いたい。

ただし、挽肉はアブナイ。表面に付着した細菌がゴチャゴチャ内部に混ぜ込まれてる。
なのでハンバーグの場合の「レア焼き」は絶対ダメ!芯までしっかり火を通すこと。
挽肉を買ったら、そのまま冷蔵、冷凍ではアウトだ。
直ちに「ソボロ」になるまで炒めてから冷凍保管すべし。
レバー(E型肝炎)は確実に内部まで火を通すこと。
80度、3分以上が最低限必要。

2.豚肉(E型肝炎ウイルス、サルモネラ菌、リステリア、カンピロパクター、エルニシア、
         有鉤条虫、トキソプラズマ、旋毛虫)

草食の牛と違って、豚は「雑食」だから生食したら大変なことになる!
豚肉、豚レバーの生食の習慣はない。だから衛生基準も無い。
いや、牛レバーのユッケ禁止の一時期、代用として豚レバーや豚刺みを食ったバカがいて、
大事件にはなったが。
豚肉の半焼け、レアーは極めて危険だ。絶対に芯まで完全に火を通すこと。
まあ、豚肉の生焼けは生臭くて食べれないけど。

3.馬肉

馬刺し?一度食べさせられたけど、さすがに気味悪かった。
馬刺しは日本にしかない文化?加藤清正が朝鮮出兵時に軍馬を食べたとか?
だから不思議なことに馬刺しは衛生基準があり、法的に認められてきた。
食中毒も少なかった。草食動物だったからかも知れない。
だが、ある時突然、大発生!輸入馬肉のせいらしい。
そもそも馬を食う文化は世界的にも少ないのだ。


4.ジビエ(鹿、猪)、、、(ばい菌、ウイルス、寄生虫だらけ)

ジビエ(駆除された有害獣の料理)ブームも来た。
だが、当然、生食はあり得ない。芯まで十分加熱が絶対条件!
レアのビフテキなど危険一杯だ。
熊の胆とかは昔から度々事件が起きてる。

屠殺も、やっと小規模でちゃんとした工場設備と認証制度が出来始めてるが、
現場での獣医師による病気の有無の確認とかが義務付けられていない。

山の中で捕獲した獲物を下してくること自体が大変なのだ。
死んでから時間が経つと、臭みが抜けない。
野生動物は臭い!ダニ、ヤマビルが一杯付いてる!
それらが宿主が死ぬとゾロゾロ落ちてくる!

猟師が、殺した猪を沢の中で捌いてるのを目撃したことあり!内臓は全部、沢に流れてた。
そのあと。トンビ、カラスの大群が空を舞ってた。
沢登りしてると沢山、骸骨に出会うのはこのせいだ。

5.鶏肉(サルモネラ、カンピロパクター)

鳥刺しは自殺行為だ,「鳥刺し用の鶏肉」なんて、法律的には存在しない。
と思ったら、南九州では普通に食べられてて、食中毒も少ない?
歴史的にそれなりの安全対策、、、解体時の内臓と肉の仕分けとか、
表面だけ焦がすとか、工夫されてきた。フグと同じだ。

だが、販売されてる鶏肉の表面には確実に、しかも大量に細菌が存在する!
包丁も、まな板も、手も、細菌だらけ!
ゴム手袋、サランラップに乗せてカットするとか、とにかく手で触れないこと。
調理後にそれらをしっかり洗浄、しかし洗ったシブキが周囲に細菌を飛散させる!
切り分けられた肉を買うことが一番安全。手を触れずに調理すること。

加熱不十分だと簡単に食中毒になる。
ただし、ジューシーな「唐揚げ」は大丈夫。細菌は筋肉の外側にしか付かないからだ。
鶏肉は加熱しすぎるとパサパサになって旨くないからね。

6.乳製品(サルモネラ菌、カンピロパクター、腸管出血性大腸菌、リステリア、
                       黄色ブドウ球菌、セレウス菌)

牛乳は製造工程で殺菌されてるので、殺菌工程での事故でしか食中毒は発生しない。
だから殺菌しないで作ったナチュラルチーズは当然、危ない。
牛乳は、冷蔵しても保存期限は守ること。

最近はやりのヤギ乳を、その場で飲むなんて絶対やめるべし。
かの、ナイチンゲールは、そのせいで後世は寝たきり生活になった!

7.卵(サルモネラ菌)

欧米では生卵は食べない!「卵かけご飯」にはビックリするはず。
卵とじトンカツ丼すら、長く放置してると危ない?!

日本人は卵の衛生管理なんて気にしてなかった。
昔から自宅で飼ってた鶏の卵(フンが付いてた!)をナマで食べてきた。
さすがに「殻の表面をゴシゴシ洗うと気孔から黴菌が入る」とは言われていたが。

今のところ日本では出荷前の衛生管理が行き届いているので安全だが、絶対ではない!
10度以下で保管し、殻を割ったらすぐ調理すること。
サルモネラが増殖する時間を与えないこと。自家用マヨネーズ作りは危ない。

8.海水魚(アニサキス、腸管ビブリオ菌)

アニサキスは餌のオキアミに寄生、それが魚に食われて生命循環している。
だからどんな海水魚にもいる!目視で取り除く?そんなことでは不完全。
とはいえ、海辺の観光地へ行けば、取れたて地魚の刺身、タタキを普通に食べれる。
つまり取って、すぐ内臓を取り出せば、「めったに」アニサキスには遭遇しない。
だが絶対に居ないわけではない!

ー20度、ー35度、何時間、何日間とか、本格冷凍でないと死なない。
なので家庭の冷凍庫ではダメらしい。
酢、ショウガ、ワサビ、ニンニクでも死なない。
かっては、サバ、青魚食って蕁麻疹、ジンマシンになったことがあったが
これはアニサキスのアレルギー症状だった!

アニサキスは本格冷凍されたマグロの刺身には全く関係ない。
だが自分で釣ったアジですらアブナイのだ。

9.淡水魚(寄生虫)

父子でアユ釣りして、刺身にして食べた幼い娘が食中毒になったニュースが!
淡水魚の刺身はヤバイとは思っていたが、ならば鯉やナマズの「洗い」はどうなんだ?
「シラウオの踊り食い」なんてとてもヤバそう。
鯉の「洗い」は、よく洗うから大丈夫なのか?
サーモンの刺身は養殖での衛生管理に頼ってるだけなのだ。

10.貝(貝毒、細菌、ウイルス)

貝の生食といえば「カキ」しかない。今は生産段階で管理されてるので安全。
だが貝は加熱しても有害な「貝毒」が発生する厄介者である。
伊勢湾の海岸での潮干狩りは「アサリの貝毒発生警報」で毎年、禁止になるのだ。

11.生野菜(大腸菌ほか)

かってはカイワレ大根中毒事件があった。
祭りの露店での「冷やしキュウリ」事件もあった。
健康志向で野菜サラダも全盛であるが、小生は大嫌いだ、コワイ。

欧米ではキュウリ、トマトで食中毒の大事件が度々発生している。
ドイツは、フランス、スペイン、イタリアからの生鮮野菜に頼ってる。
隣国の衛生管理にも文句をいわなければならない。
ひとたび食中毒が起これば国際問題、賠償問題に発展する。
日本で発生してないのは生産、流通、輸入での衛生管理のおかげでしかない。

生食と言えるかどうかだが、野菜の発酵食品(キムチ、浅漬け、キュウリの塩もみ、
白菜の一夜漬け、なれ寿司など)はもっと複雑で食中毒と紙一重だ。

私は敗戦直後に進駐軍からの指示で、小学校では「ヒマシ油」を強制的に飲まされて
「回虫退治」させられた年代である。
あれは強烈な下剤で、一気に回虫を排泄させるだけの代物である。殺虫薬ではない。
日本では、はるか昔から肥料として人糞が当然のように撒かれてきた。
回虫が体内と畑を循環するのは当然である。今でも中国、東南アジアでは普通だ。
そんな輸入野菜を今、ナマで食べるご時世である。覚悟すべし!

12.ハチミツ(ポリツヌス菌)

よく知られたことだが、乳児にはハチミツ厳禁!
なぜか、乳児の腸管でポリツヌス菌は大増殖するのだそうだ。

13.湧き水ブーム

名水と呼ばれた所は、ちゃんと水質検査をしている、、とも言えない。
ポリタンクで大量に汲みに来る人がいるが、湧き水には塩素が入ってないので
1週間もすれば細菌が増殖する!水道水とは違うことを知らない人が多い。
ナマで飲むのはアブナイ!

登山の途中で沢水を飲むのは自殺行為だ。全く濾過されていないし、
上流に山小屋でもあればトイレは沢に垂れ流しだああ!
北海道なら「エキノコックス」に汚染されてると思うべし。

沢水で顔を洗ったら「鼻腔の中に寄生虫が住み着いた」なんて事故はアメリカでは普通にある!

水に塩素を入れれば滅菌出来ることを発見したのは偉人、ゴッホだ。
だがその論文はだれも着目せず、50年が経過。
シカゴの市街は湿地帯に松の杭を建ててその上に都市を作った!ベニスと同じだ。
なので毎年、夏には赤痢、疫痢の大流行が、、、
困り果てた水道局の技術者がゴッホの論文を発見。
こっそり水道に塩素を適量投入。その年には赤痢も疫痢もほとんど発生しなかった!
だが本人は御用となって裁判沙汰になった。

世界周航するヨットは、港ごとに清水タンクに給水しなければならない。
それが塩素入りの水道水なら1ケ月は安全だ。
だが絶海の島だったら塩素は入ってない!煮沸しなければ大変だ。

ヨットは波で揺れる。清水タンクの中も揺れる。攪拌されるので多少は長持ちする。
港に長時間停泊してるときは、清水タンクの中の水はアブナイということ。

書きかけです。


ペリリュー島、沖縄戦記を読んだ

移住した小生の余生は病院と図書館通い。フト「手記」という分類棚が目についた。
そこで発見したのがタイトルにある地味な文庫本だった。
なお、小生はミリタリー・オタクではない。 そのことはあとで述べますが。
 
       「ペリリュー島、沖縄戦記」   ユージン・B・スレッジ著

戦記というよりも、ニックネーム「スレッジハンマー」自身の戦場日記による体験記。
若くして海兵隊に憧れて志願、過酷な訓練の後に戦場に送り出された。
戦後は大学教授にまでなったインテリだ。一気に読んだ。

戦略的にたいして重要でなかった小さなペリリュー島。
日本軍の飛行場があったので、ここを使えなくしようとしたのか?
だが肝心の日本の軍用機はもう来れない戦況だった。

上陸前に絨毯爆撃、艦砲射撃をメッタヤタラにやった。
だが米軍はまだバンカーバスター(地下貫通弾)は持ってなかった。
なので洞窟、地下壕にはほとんど効果なし。日本軍の火器は温存されていた。
結局、山岳戦に持ち込まれた。
谷間は洞窟、それらをつなぐ地下壕。トーチカだらけ、
大砲は洞窟から発射されるが、発射のあとは厚い鉄扉が閉じられる。
海兵隊は、全滅した日本軍とほぼ同じ1万人規模の戦死者、傷病者を出す。
アメリカにとっては衝撃的な失敗だった。

恐ろしい、凄惨な内容だ!映画にも動画にも出せないような場面がリアルに連なってる。
米軍、日本軍双方の砲撃と銃撃の挟間にあってクギ付けになって動けず。
砲弾でバラバラになった日本兵、アメリカ兵の腐乱した死体、手足、内臓、、、
巨大なウジだらけの体がゴロゴロしてる。
隠れるためにドロンコの水溜まり(砲撃の穴}の中を掘ったら、そこからも日本兵の
ウジだらけの死体が出てきた。数日、ときには10日以上も死体と同居してた。

第一次世界大戦の悲惨な塹壕戦と同じような戦場が太平洋戦争でもあったのだ。
そして今、ウクライナでも同じ事が現実に起きている、、、、愚かな人間

海戦、航空戦なら何十分、何時間で勝敗が決する。戦争ゲームみたいなもんだ。
だが地上戦、白兵戦、肉弾戦は何か月の単位で昼夜を分かたない持久戦、
目の前で次々に倒れる戦友を見て、募る日本軍兵士への激しい憎しみ、恐怖。
しかも日本軍の得意戦法「夜襲」への警戒で、眠られないら夜が続く。エンドレス、、、
その結果、「戦争神経症」つまり発狂して戦列を去るものも少なくない。

陸軍マッカーサーのレイテ島上陸作戦に対抗意識を燃やした海軍トップが
ペペリュー島の日本軍の地下壕要塞を甘く見たための失敗。
「3日で終わる」と豪語したが実際は2ケ月半もかかった。
しかも失敗を認めようとしないで応援も断った。
インパール作戦で失敗した牟田口参謀と同じことをやったのだ。

なのにアメリカ海軍は、そのあとの硫黄島でも地下要塞にてこずった。
さらに米軍の一方的勝利の印象が強い沖縄戦でも、首里城の地下壕要塞攻撃で
米軍は日本軍の死傷者の20%に相当する損失を出した。

ベリリューと沖縄の2つの作戦を転戦した彼の二百数十人の海兵隊仲間のうち、
生き残った古参兵はわずかに20数人。
わずかな訓練だけで本国から送り出されてきた若い補充兵の多くは、
不慣れな行動のせいで、たちまち倒れていった。
スレッジハンマー自身も、訓練当時は筋骨隆々の海兵隊員だったのに、
終盤では痩せ衰えた。米軍の体力も限界に近かったのだ。
民主国家のアメリカでは留守家族、議会から危惧の声が高まった。

そもそも日本は、広大な島嶼防衛は維持すら不可能だったのでは?
そして、南洋でいくつも起きた「島嶼戦」はアメリカにとって必要だったのか?

硫黄島ですら、占領目的としたB-29の緊急着陸というケースはたいしてなかった。
後続距離の短い戦闘機による本土への攻撃に硫黄島が使われただけだ。

既に日本軍のシーレーン(海上補給)は寸断され、制空権も米軍にあった。
島嶼の日本軍を放置しておいても攻撃される心配はなかったのでは?
事実、陸軍のマッカーサーは、日本軍が占領している島嶼のいくつかを無視した
「カエル飛び作戦」をやってフイリッピンのレイテ島上陸作戦を果たした。

もしも、戦友を殺された彼ら海兵隊が、そのまま日本を占領した連合軍の主力となっていたら、、、、
満州でソ連がやったのと同じことが、米軍によって起きていてたかも知れない。
だが幸いなことに、戦闘で疲弊した殺気立った海兵隊は、もはやその余力を失い、本国に引上げた。
日本占領連合軍の主体は、戦闘経験のない補充兵や、欧州戦線からの軍隊だったのだ。

アメリカの在郷軍人会も既に高齢化した。
「原爆を落とさずに本土決戦になれば米軍に50万人とも予測される戦死者が出たはずだ」
という主張は、島嶼戦での膨大な失敗に裏付けられたものだったのだ。
原爆投下への正当性の主張は消えてはいない。
日本への憎悪はパールハーバーの奇襲だけではなかったのだ。
地上戦の日華事変でも同じことが起きた。中国の日本への憎しみは消えていないのだ。

ついでにもう1冊読んだ。
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     「日本軍と日本兵、米軍報告書は語る」  一ノ瀬俊也著 講談社現代新書

多数の日本人捕虜を尋問した結果から、、、、
「日本兵は捕虜にならずに死を選ぶ」という通説は、東条英機の戦陣訓の
「生きて俘虜の辱めを受けるなかれ」を守ったからではなかった。

多くの日本兵は農民であり、村社会から送り出されて来た。
出征兵士の留守家庭は手不足で農業を継続できなくなる。
それは村全体として支援するという前提条件で出征した。
だから「自分が捕虜になったことが分かると、支援を打ち切られ、家族が生きていけない」
「自分が帰還しても村八分になる」という心配が強かったからだという。
一方で「見知らぬ土地へ帰還すれば、生きていける」とも考えていたと。

多くの兵士は「天皇のためにバンザイ突撃、玉砕をする」気などなかった。
軍隊内の命令、暴力制裁に縛られていただけだった。

都会出の兵士は、村社会の束縛もない。戦前にはアメリカ文化、洋画、洋楽のファンでもあった。
英語が分かる者も多い。なので「鬼畜米英」など信じてなかった。
高等教育を受けたインテリの多くは、戦争の早期段階で「アメリカに勝てるはずはない」
と思っていたと。

最前線で自分だけ降伏すること自体、非常に危険が伴った。
味方に後ろから撃たれるかも知れない。
それに中国で自分達がやった捕虜殺害の逆を恐れた。
多くの捕虜は戦場に取り残された傷病兵だった。

「アメリカ海兵隊員は捕虜を取らない」という通説はウソだった。
降伏してくる日本兵を信用して、逆にワナに掛かった例もあった。

アメリカ軍の参謀官僚としては出来る限り死傷者を減らさなければならない。
そこで出来る限り捕虜を保護し、待遇を改善し、情報を得るだけでなく、
日本語で投降を呼びかけさせるような協力者に仕立て上げた。

日本軍捕虜の多くは非常に協力的だった。
その背景は日本人の「借りたものは返す」「恩義に報いる」という信条だった。
命を救われたお返しとして積極的に協力したのだ!
捕虜をもとの陣地に送り返して、仲間を投降者として連れ帰るという試みまでやった。
意外なことに、この作戦はほぼ100%成功した!

参考までに、、、
私は、東京空襲の生き残りです。
昭和16年(1941年)生まれだから終戦の年には5歳弱。
だが不思議なことに戦争体験は鮮明に覚えている。

父親は、30才にして生まれた3ケ月の私を後に満州へ出征。
理由は軍需品の商社の支店長だったので「志願扱い」で行かされたのだ。

留守母子は、京急の「大森海岸」の近くの母の実家「海苔の網元」に居候した。
毎晩、電灯に黒い風呂敷を掛けた。「灯火管制」である。
空襲前日の晴天はるか上に、二筋の飛行機雲がきれいに見えた。B-29の偵察飛行だった。
その晩の空襲警報の「サイレン」  今でも甲子園野球で鳴るとドキッとする。止めてもらいたい。

「カビ臭い防空壕」に入った。あくる日、外に出たら、一面の焼野原、地面が熱かった。
羽田飛行場の向こうの海までズット見えた。
庭のほうぼうに六角形の焼夷弾(ナパーム)の抜け殻が積み上げられていた。
クズ屋に売ればカネになると。

焼失した実家をあとに真夏の炎天下、第一京浜国道(今のイチコク)を
京浜急行の「青物横丁」にあった、父親の勤務先を頼って母子3人で歩いた。
途中で歩けなくなった私だけ、後から来た「おじいさんの牛車」の後ろに乗せて貰った。
(母は馬の荷車だったというが)
だが居候させてもらった店舗も1週間後の空襲で焼けた。「疫病神だ!」と追い出された。

次に実家が住み移った「馬込」の東電のショールームだった店舗に移った。
家の中で消防団が焚火で暖を取ってたので、天井まで煤で真っ黒だった。
夜は「ホー、ホー」とフクロウの声が聞こえた。私はここで成人まで生活したが。

そこでも夜間に空襲警報が鳴って、「第二京浜」(今のニコク)に母子三人で逃げた。
「品鶴線」(今の新幹線)の土手の至るところが焼夷弾で燃えてるのを眺めてた。
国道を「三輪の消防車」が、力なくチンチンとン鳴らして通り過ぎた。
おぶわれた私の背中の「ドテラ」にも焼夷弾の油の雫が燃え移っているのを
2才上の姉が発見し、消し止めたので事なきを得た。

敗戦後、焼け跡の至る所にコスモスだけが元気に花を咲かせていた。
水道管の蛇口だけがポッツリ立っていて、水飲みには困らなかった。

飢餓が東京では大変だった。食べるものが何もない。
カタツムリを焚火に放り込んで食べた。コクがあって旨かった。
畑の中に野菜の「洗い場」があって、食用ガエル(ウシガエル)とアメリカザリガニが取れた。
ザリガニはフライパンで焼いたら、エビのように(知らなかったけど)旨かった。
だが母が「ジストマがいるからダメ」と禁止。
カエルも「かわいそう」と逃がされて食えなかった。

父親は敗戦後、シベリアの収容所で昭和24年まで生きていた。
ハガキが1枚来たが、そのときはもう現地で死んでいた。
母は戦争未亡人として、再婚するまで地域から差別された。

終わり








ヤブ医者と名医 その2

続編です。

4. 「非結核性抗酸菌症」

40代から風邪を引いて医者に行くたびに、、、、「肺炎になってます」と !
レントゲンの左肺に白い影が!でもそれほど苦しくない。
長年、大気汚染のひどい大工業地帯での勤務だったから、きっと公害病だ。

別な医者からは「肺がんかも知れない」と専門病院を紹介された。
だが、「この部位にはガンは出来ない」と門前払い。

放っといたら、自治体の無料健康診断のレントゲンで毎年、「精密検査が必要」
の通知が来るようになった。肺結核なのか? BCG はやってるし。
仕方なく専門病院へ。 
ツベリクリン検査やったら看護師が何人も見学に!珍しいのか?
結局、皆さんの期待に反して「紅斑」はゼロ。肺結核でもなかった。
医者は面倒だとばかり「カビでも巣食ってるんじゃないの?」でオシマイ。
患者に失礼だろうーが!

ネットで調べたら「痰の培養検査」というのがあった。またまた別な医院へ
頼みに行った。そしたら目の前に「アユインシュタイン博士」が!
一目見れば誰でも分かる。名物バンカラ先生だ。
「いいよ。でも自己負担だから費用が高いし、結果出るまで3か月先だよ」
数千円取られた。

3ケ月経って行ったら「非結核性抗酸菌が出たよ」 何じゃソレ?
「感染症じゃないからから放っといていいよ」
もともと土の中の菌、川の水、水道水にもいる常在菌らしい。
結核菌に似てるが、命にかかわらないので治療薬は開発されてないと。
あのヤブが言った「カビでも巣食ってんじゃないの?」が当たってたというわけ。

痰の培養試験は1回では確定できたとは言えない。
そのあと、ほうぼうで合計5回やった、そのうち1回、また抗酸菌が出て、ほぼ確定。

何でそんなものが? 
思い当たるのは小学生のとき、学校のプールで溺れたこと。
ひどい肺炎になって連日40度の熱が30日。マッカーサーが持ち込んだばかりの
ペニシリン(1本50万円といわれた!)を打ってくれて助かった。
当時の宝くじの大当たりは100万円の時代だ。
貧乏だったので絶対、払えなかったはず。医者が負担してくれたのか?わからない。
そのとき、大量に飲んだ水の中に抗酸菌がいたのだろう。
敗戦直後の学校のプールに塩素が十分入ってたとは考えにくいからねえ、、、

ところが、またまた、、
心臓のトラブルで「ハートクリニック」へ行ったらレントゲン見て「これは肺気腫だ」と!
「放っとくと酸素ボンベ引っ張って生活することになる」と脅す。
肺気腫はタバコ飲みのかかる病気だ。タバコは飲まないんだけど、、、
「いえ、これ、抗酸菌症です」と言ったが「それとはまた別です」
仕方なく肺気腫の薬を飲まされ続けた。

その後、長野県安曇野市へ引っ越した。
呼吸器クリニックへ行ったらまたまたレントゲン、「これは肺気腫ではありません」 エーツ!
「肺にトンネルが2つも開いてる」「痰培養で2回出たなら抗酸菌症でしょう」 
「専用の治療薬は無いけど、肺結核の薬で多少は抑えることは出来る」
「肺結核と同じで、体重を落とすと悪化する」ということで、
抗生剤を死ぬまで飲むことになった、困ったもんだ。

さらに、長野県池田町へ引っ越して、治療センターへ紹介状持参したら、、
即、その場でCTをやってくれた。「トンネルが4つに増えてます」
どうりで最近、息切れがひどい。散歩の距離が短くなった。

痰の培養検査はずいぶん前のことだったので、改めて6回目をお願いした。
結果が出るのは3か月後のはずだったが、、、、なんと3日後に陽性と!
今や、コロナのP.C.R.検査と同じことが、どの細菌、ウイルスでも出来るのだ。
しかも菌の名前まで、、、「マイコバクテリウム」 略して「MAC症」だそうだ。
マクドナルドじゃないよ!

5.耳管開放症

10年前から自分の呼吸音がいつも聞こえるようになった。
聴力は正常だが、うるさくてたまらない。不思議なことに天井向いて寝ると、
、、、ピタリと収まる!起き上がるとまた発症する。
この特徴から、ネットで調べたら「耳管開放症」と出た?
上向いて寝ると、筋肉がだか脂肪だかの重みで管を塞いでくれるらしい。

鼻と耳を継ぐパイプである。なんでそんなものがあるのか?
耳管は正常ならば普段は閉まっている。「耳抜き」するときに開く。
ヒコーキが離陸したり、高い山に登った時に耳鳴りする。
ガム嚙んだりして耳管を開くと治る。
耳の中の気圧を外と平衡させるためにあるらしい。
年中、開いてると鼻から耳へバイキンが入って中耳炎になる?怖い。
だから必要なとき以外は閉じている。原因はこれまた老化?

若い女性が急なダイエットしても起きるそうだ。耳管回りの脂肪が減るからだと。
私はj女性ではないし若くもない。だが、たしかにトシ取るごとに痩せてきた。
中学のときは73kgあった。今や53㎏、情けない。

そのうち、呼吸するたびにペコペコ、ザーザーと音がする。うっとおしい。
近所のクリニックでは「聴力は正常です」と相手にしてくれない。

隣町の賑やかな通りで、たまたま見つけた耳鼻科にも寄った。が、、、?
待合室がガラン、看護師も、誰もいない。なんかヤバそう。
出てきた医者はろくに見ないで「大学病院に専門家がいる。紹介状書いてやる」

2時間かけて大学病院へ。聴力検査済まして待ってると、若い医者が、、、
開口一番「なんでこんな正常者を送り込むのか!」といきなり怒る。
「若けりゃ、カテーテル入れる手術もあるが、やらんでしょ?」

怒りが静まったところで「2000ヘルツっだけが聞こえてないね」
「何か、仕事上でそういうことやってなかったのか?」としつこく聞く。
今、困ってることはそれじゃないのでダンマリ。
ネットで調べたら「音響外傷性難聴」というらしい。読んで字の如しだ。
2000ヘルツには心当たりがある。
確かに体温計のピーピー音だけが全く聞こえない、これが2000ヘルツの音なのか?

一時、リストラされて出向した名古屋の子会社に。
単身赴任のヒマな窓際族になった。休日も帰郷できず、やることなし。
偶然、さんぽ途中のお屋敷の庭に埋もれてたポンコツを発見!
それは、出向先の子会社がまだ独立した会社だった時代に製造していた軽だった。
まあ、軽のヒストリックカーだね。

ならばと、それを発掘してレストアする活動を社内で始めた。クラブまで作った。
毎日、昼休みや定時後に。ヒマさえあればサビサビのボデイを
グラインダーで削って溶接、塗装。そのうるさいグラインダーの回転数が2000ヘルツ!
耳栓して作業すべきだったのだ。後悔、先に立たず。

またまた、クルマで1時間かかる別の専門医を見付けて受診。
内視鏡を耳に突っ込んで、鼓膜が呼吸のたびにペコペコするのを見せてくれた。
「治療法はありません。漢方薬が効くこともあるそうです」
大量の漢方薬を抱えて帰宅。だが、、、まったく効果なし。

最近は、大きい音がやたら頭に反響する。小声はしっかり聞こえるのだが。
病院の呼び出しスピーカー、スーパーのアナウンス、防災無線、どれもダメ。
耳が遠いと思われて大声出されるとなおさら分からない。
テレビもボーボー言うだけなので字幕オンリー。
音楽鑑賞も、なんか歌手が皆んな音痴に聞こえる!CDのコレクションは捨てるしかない。

6.失神転倒、顔面強打、硬膜下出血、眼窩底骨折、顎骨折

かれこれ5年ぐらい前の話だから、まだ75才くらいだった。
ある暑い夏の日中、知人宅を出て駐車場に、、、そのまま記憶は途切れた。
気が付いたのは真夜中の病室、誰もいない薄暗い廊下、一人でトイレを探した。
そこは救急も扱ってる行きつけの病院だった。
数日は、左目の上がパンパンに晴れてた。まさしく「お岩さん」!そのまま45日間、強制入院生活。

知人によると「顔面血だらけで駐車場から戻ってきた。なので自宅まで送った」
「そしたら自分で救急車呼んで乗り込んで入院したんだよ」と。
院長によると「救急搬送されてきたが、自分で状況説明してた」と。
看護師さんから東京の次女へ「所有品に緊急連絡先があったので電話した」と。
次女はクルマ飛ばして千葉の病院に。院長から「硬膜下出血がある」と説明されたと。
これらは退院直前に知ったのだが。

入院数日後の再検査で眼窩底骨折発見!
大きい病院で精密検査したほうがいいと紹介状貰ったので退院後に隣町の大病院へ。
「心療科」?!へ回された。年増の色っぽい女医さんがにこやかに「心配ごとは何ですか?」と。
イエ、そうじゃなくて、、、カネの悩みはあるけど、、、、心の病なんて全くないんです!
一体、紹介状にナニ書いてあったのか?

脳外科で硬膜出血の具合と、眼科で「眼窩底骨折」を見てもらいたいだけなんだけど。
眼科へ回してもらった。
眼窩骨折はモノが2重に見えることもないので、手術せずに放置と決定。
心療科の年増女医さんは好みのタイプだったので、そのまま半年、ダベリに通った。

ある日、近くの歯医者へ。そこは口腔外科でもあった。
レントゲン撮ったら「顎骨が骨折してます」!そのまま放置してたら治った。

半年過ぎて、フト気が付いたら、両膝にひどいアザが!
そうか、きっと炎天下、熱中症かなにかで失神して膝から崩れ落ちたのだ!
そういえば顔面がやや非対称で、鼻の軸が左に曲がってることにも気が付いた。

それにしてもあの救急病院は集中治療室も無かった。付き添いもいなかった。
あのとき、夜中の普通病室で1人で死んでもおかしくなかったのだ。

終わり



古民家の耐震性

引っ越してきたこの地には江戸時代からの古民家だらけ!
それを大金かけて再生してる方、外国人もおられる。
黒光りした太い柱、梁は素晴らしいのだが、、、、、私には一抹の不安がある。

私は工業高校の機械課程卒だが、授業には建物構造力学もあった。
当時の某有名建築家の息子が講師として来た。でも雑談ばかり。
最初の授業は「ラーメン構造」と、「トラス構造」の違いだ。ナニソレ?
他に「耐力壁構造」とか吊り橋みたいな柔構造あるがそれは省略。

分かったことは、、、
1.ラーメン構造とは神社の鳥居、日本建築、造船所の鳥居型クレーンなど。
  簡単に言えば井桁に組んで、その接合点だけを固定する。筋交いはゼロ。
DSC08943.jpg
  究極のラーメン構造!
  これは神社の舞台、ひしゃげてきたので丸太の「筋交い」が縛り付けられてる。  

  鳥居には当然、筋交いはない。接合点は差し込みホゾ穴、クサビだけで止まっている。
  地震が来ればこ、れらは緩んだり抜けたりする。
DSC08927.jpg
  いやいや、ホゾ穴、クサビだけでも頑張るもんだ。鳥居本体が傾いても大丈夫!
DSC08942.jpg

  井桁、つまり4角形は捻じれる。ラーメン構造はねじれるのだ。
  4輪駆動車はサスペンションスプリングが無いと「接地性」が悪い。
  井桁フレームが多少捻じれてくれるが。
  完全な平坦路だけを走るゴーカートにはサスペンションそのものがない。
  これもフレームが捻じれることでサスペンションの代わりとしている。

2.トラス構造とは、東京タワーとかスカイツリーとか高圧鉄塔とか。
  徹底した三角形、つまり筋交いだらけ。接合点は固めずに回転可能なピン接合。
  軽くできる。空気抵抗が少ない。台風で倒れにくい。(倒れた鉄塔もあったが)
  ナチスの急降下爆撃機がイギリスのレーダー鉄塔を爆撃したが、
  トラス構造でスカスカだったので持ちこたえた!

  「3点は1平面を形成する」 つまり三角形は1平面しかない。
  だから捻じれない。そう、トラス構造はねじれに強いのだ。
  昔の三輪車のフレームは原理的には捻じれない。凸凹悪路に強い。

オヤ、、、、、私は疑問を感じた。なんで軽くて強くて変形しないトラスを採用しないのか?
ラーメン構造って「柔構造」になってしまうのでは?
地震が来ればねじれるし、柱も梁も曲がる。そうならないためには接合点をガッチリ固める。
余分な材料がかかる。重くなる。

どっちを選ぶかは構造物の用途、制約で決める。昔はラーメン構造が全盛だった。
筋交いがあると出入口や窓が作れないからだ。
鉄筋コンクリートのビル建築は、ほぼラーメン構造である。

DSC08867.jpg
木造日本建築では「圧縮側の筋交い」は点々と交互にある。
だが「引っ張り側」の筋交いはゼロ。
最近は接合点を金具をボルトで止めて引っ張りにも効果を持たせている。
でも所詮、木柱は一定以上の引っ張りがかかると穴が破断する。

古民家も太い柱と梁とで「井桁の鳥居」で構成されてる。筋交いはほとんど見当たらない。
しかも屋根は重いカヤ葺き、瓦ぶき。壁は漆喰、土ワラ塗で耐力壁ではない。
太い柱で、上からの自重、雪の重みに耐えることを優先してる。
DSC08934.jpg

そして南側(縁側、廊下)は、日当たり、眺望、風通し優先で。
全長にわたり開放されていて、柱しかない。筋交いはほぼ無し。

DSC08924.jpg
耐震補強工事開始!

ホゾ穴のところは柱、梁が切り欠かれてる。
材木は「目切れ」している。そこだけ細い、弱い。そして応力集中する。
地震が来て、ホゾが折れたり、クサビが抜けたら倒壊しないのか?
そのため太い木材を使用している、ますます重くなる。
DSC08903.jpg
究極の古民家!!

関東大震災では日本建築が多数倒壊した。梁、柱の下敷きになった人が多い。
阪神大地震では、1階がピユロー構造(筋交いなし)のビルが倒壊した。

ちなみに、昔の屋根瓦は固定してなかった!
地震の振動でズリ落ちて割れる。そして屋根が軽くなるのだ。

だが固定してない屋根瓦は、風速20mで飛び始める!
最近は針金、釘で止めてるとはいえ、やはり台風で飛ぶ。
それにもうズリ落ち効果はない!
瓦屋根屋さんは今、絶滅に向かっている。

そして最近、ふと気がついたら、、、、
古い自治体のビル、学校、体育館、銀行は全て耐震補強が完了。
つまり三角形の鉄骨で「筋交いだらけの箱」で全体をカバーしてある!
窓を横切ってる斜めの筋交いがたくさん見える。
今更、気が付いたのか?そうだよな、これでいいのだ。
DSC08889.jpg
一見するとラーメン構造?いやトラス構造?
いや、ナマコ壁風のデコレーションだな。紛らわしい。

DSC08908.jpg
究極のトラス建築!

古民家だって、目立たないように筋交いを加えないとマズイのではないか?
「いや、江戸時代からこれで大丈夫でした」それが古民家なのだ。
でも、豪雪はあったが、単に地震、強風災害が無かっただけなのではないか?
私にはよくわからない。

オマケ話です。
私は、自慢じゃないけど昭和30年代に有名国立大学の、付属工業高校に合格した。
名目競争率は20倍!ナンデ?
正月に入ると一番に入学テストが行われる「腕試し試験対象校」だったのだ。
だから合格発表の後の入学金支払い日には、大量の辞退者が出る!
実際に入学したのは補欠合格者だらけ、貧乏人ばかり。
なにしろ当時の学費は月500円!実習費ゼロ!

「付属」といってもストレートに大学に入れるシステムは無い!
だから進学希望者は3年生になるとほとんど欠席する。
塾通いが学校で公認されてたのだ。

私は頭悪かったので「機械課程」を選んだ。機械の奴は「ツブシ」が効く。
就職難でもどこかに潜り込める。なんでもこなせるのだ。

「電気」「電気工学」「化学」という課程もあったが、連中は優秀だった。
何も存在しない空間で理論を弄べる「オタク」だ。
「建築課程」の連中は体育系だ。卒業すれば現場監督になる。

付属高校は、大学を退官したヨボヨボ教授(今や私もヨボヨボだが)の受け皿。
だからまともな授業は皆無。「自分で勉強しろ」「今日は自習」そして昔話、雑談で終わる。
当然、戦中、敗戦直後の話ばかり。

休講なら喜んでグランドに飛び出して野球、サッカーの毎日、ほとんど勉強した記憶がない。
だが級友は秀才揃い。私はなぜか連中とテスト結果を何度も間違われた。
「今回はオマエがテスト一番だ」?カンニングなんかやってないのに期末試験合格!

あの頃は、先生でも定年55歳過ぎると皆なヨボヨボだった。
戦中、戦後の栄養状態が悪かったのだ。
私も、もっと勉強してたら人生も変わってたかも知れない、と後悔してます。

書きかけです





 
プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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