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戦艦武蔵

戦艦大和の本を読んだら、その2番艦の「武蔵」を読まなくては、、

「戦艦武蔵」  吉村昭著   新潮社  昭和46年発行
戦艦武蔵

この本は吉村昭の出世作、だが彼は「高熱隧道」(黒部開発)でも有名だ。
フィクションではなく、徹底した資料集めによるドキュメントである。

戦艦大和は呉の海軍工廠の乾ドックで作られた。3番艦も4番艦も海軍工廠で作られた。
これらに対して戦艦武蔵は三菱重工長崎造船所で作られた。なんで?
予算が通ったから急いで作らないと、、、風雲急を告げていた国際情勢がバックにあった。
「仕方ない。民間にも作らせよう」となったのでは?三菱もいい迷惑だった?
この本の大半は、民間であるが故の大きなハンデキャップの物語に費やされている。

そもそも長崎は周囲三方を山に囲まれた細くて長い湾内、坂道だらけの町。
そして海外公館もある。造船の町だ、造船所は丸見え。
秘密裡に巨大戦艦を作る場所ではない。

秘匿(ひとく)を図るために高い塀を作るわけにもいかない。台風が来たら倒れる。
そこで漁具の綱ぐらいしか用途のなくて大量生産されない棕櫚(シュロ)を九州、四国一円
から買い占めて、巨大なノレンを作ることから始まった。シュロ縄製造機まで購入した。
このノレンをドックの回りに垂らして外から見えないようにした。
結果、台風が来ても風をはらむこともなく3年間、最後まで持ちこたえた。
「ノレンに腕押し」だ。

ただし。秘匿のために武蔵の進水以降も張られっぱなしだったシュロの巨大ノレンは
その後、隣の船台からの溶接火花で燃えてしまった。現れたのは次に建造中の空母だった。
武蔵建造中に燃えなかったのは運が良かった?

それでも足りず、監視塔やら警備員、警察、特高、最後は軍隊まで動員して民間人、スパイを
監視、取り締まった。進水日は大演習と称して市民を追い払った。
長崎の人々にとっては怖ろしい3年間だったろう。

いっぽう、呉の海軍工廠の大和は乾ドック内で造られた。
乾ドックとはプールの水を抜いてフネを造り、完成したら水を入れて海とのゲートを開く。
だが長崎三菱にはデカイ乾ドックは無かった。
スロープの船台から巨大戦艦を滑走、進水させなければならない。
失敗すれば向こう岸にブチ当たってしまう。
事実、進水したら高波が押し寄せて、民家が床上浸水!

さすがに巨大な砲塔は民間では作れない。
合計2800トンの砲塔を呉海軍工廠から運んでくる特殊船まで新造した。
壮大なムダ金を使ったのだ。

更には、、、数千人の従業員が機密を守れるか?という大問題があった。
呉海軍工廠から支給される膨大な図面、これが外部に漏れたら大変なことになる。

だが、厳重管理してたはずの図面の1枚が紛失する事件が起きた!
その捜索で特高警察に拷問された数名の同僚は、精神に異常をきたした。
犯人は、機密図図面庫の雑用に採用された新入り18歳の製図工だった。
ストレスに耐えられずに紙ゴミと一緒に燃やしてしまったのだ。
彼は有罪となり、コッソリ満州に送られた。
この事件そのものも重大機密であり、解決までの2ケ月間、工事が遅れた。
またこれとは別に飲み屋で機密を漏らした工員も逮捕された。


シブヤン海の海戦での武蔵の沈没に至る経過はというと、、、、

大和も、武蔵も、米軍の同時攻撃を受けた。
だが、損害を多めに受けた武蔵が輪形陣の外側に遅れた。
米軍は、大和への攻撃を中止、武蔵だけに集中攻撃をかけた。
遠望していた大和には何も出来なかった。そして武蔵は沈没。

沈没まで9時間と長かったので、乗り組んでた3000数百人のうち、
救出された生存者は1300数十名だった。
大和は2時間で沈没したので生存者は200数十名。

だが生き残った武蔵乗組員には、更なる過酷な運命が。
フイリピンに移送された者のうち運良く内地に戻れたのは200名、
だが武蔵の沈没を隠すために小島に隔離。
そこまでして国民を欺いたのだ。

別な400名は内地への輸送船に乗ったが、悪名高き「魔のバシー海峡」で再び
米軍の潜水艦にやられ、再び海の中へ。120名の生存者はフイリピンに逆戻り。
その後、大半の生存者はマニラ陸戦防衛隊に編入され、その多くが玉砕した。
軍隊というのは血も涙もないところだ。

私の母は戦争未亡人で、自分より7歳も年下の義父と再婚した。
その養父は少年兵として終戦間際に招集され、浜松の航空隊基地に所属。
当然、「根性入れ棒」、バットでの尻たたき懲罰も度々受けたと。
最後には輸送船に乗せられてフイリピンに。だが「魔のバシー海峡」で米軍潜水艦に
やられて沈没。一晩漂流して救助されて浜松へ戻った。
だが再びフィリピンへ!またまたバシー海峡でやられて沈没。
イカダの上の将校は発狂したと。    生き残って終戦を迎えた。

養父の戦友の「おじさん」は「死のインパール作戦」の生き残りだった。
蛇でもネズミでも食って生き延びた。
敗戦当時の公衆浴場には、手足を失った人が一緒に入ってた。
電車の中では白衣、黒メガネの「傷痍軍人」が募金して回っていた。
路上では、リヤカーを車椅子自転車に改造した旧兵士が往来していた。


秘匿(ひとく)と言えば、、、、、
かって私はN自動車の開発部門に属し、横須賀は追浜のテストコースにもいた。
そこは奇しくも旧海軍工廠航空隊の滑走路の跡地を払い下げてもらった場所なのだ!
ゼロ戦を隠したコンクリート製のアーチ型の「掩体壕」も残っていた。
近くの海岸べりの「夏島」の頂上50mには展望台があって、コース全体を見下ろせる。
長崎みたいに「シュロのノレン」を作ってもムダだ。ニューモデルのテスト走行は丸見え!

なので守衛さんがいつも1人、展望台に待機していて、スクープ写真を狙う雑誌社が来ると
コースの管理タワーに「暗号無線」で連絡が入る。
直ちに「全車走行中止」の赤シグナルがコースに点灯!

時には守衛さんとカメラマンがモメて警察が来た。といっても地元だから警察も会社の味方だ。
カメラマンが諦めて帰ったら走行開始、イタチゴッコ。
なお、コースの「管理タワー」は羽田空港の管制塔ソックリに作ったのが自慢のタネだった。

新人のストレス問題はN社でも発生した、、、
高度成長期に、地方から上京してきた新入社員は、先輩も超忙しくて
「自分の仕事は自分で仕事探してね」と言われるだけで面倒見てもらえなかった。
毎日、ボンヤリ職場にいたが、、、、そのうち言動が怪しくなった!
結局、私が実家まで新幹線で送り届ける役目に。
ご家族の話だと、ご本人はモノスゴク几帳面な性格で、毎日の行動パターンが分刻み
で決まっていたとか。それでは修羅場の開発部門ではとてもムリだと結局、退社となった。

ストレスで言動が怪しくなった事例は他にも何件も発生。
無断欠勤したので下宿へ行ったら、窓を閉めた真っ暗闇の部屋で座禅を組んでたり。
夜中に寮から裸で逃げ出したのを皆で一晩中追いかけて、精神病院に収容したり。
キリスト教に凝り固まって給料の全てを寄付してしまって欠勤、
探したら教会に居候してた、今は牧師になってる。
高度成長期の副作用である。

会社がリストラした時も発生、、、、
九州に飛ばされた課長さんが、知らぬ間に自宅に戻っていたり。
まあ、私も遠地に単身赴任したとき、朝、「見当識」が無くなった、ココはどこ?
人のことは言えないけど。

書きかけです。


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大和ホテルは高くついたのか?

図書館の本棚を巡ると、ついついドキュメンタリーの分類に目が行ってしまう。
大和にまつわる本は出尽くしていて、こういう変わった視点のものもある。

「戦艦大和と1万200個の握り飯」  青山智樹著 柏書房

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多くの日本人は「大和って、1隻じゃないの?」と勘違いしてるはず。
そうではない。4隻も作ったのだ!
そもそも貧乏だった日本が四隻もの巨大艦を作ったこと自体、マトモな神経ではない。
それなのに、なんで大和だけが有名なのか?玉砕覚悟だったから?

四番艦は、パールハーバーの航空戦果を受けて、造船途中ですぐに解体された。
三番艦は、ミッドウエイで、いきなり空母3隻を失なったことを受けて、空母「信濃」として改装。
     だが完成10日後の回送中に米軍の潜水艦にやられて沈没。
二番艦の「武蔵」は、シブヤン海の海戦でボコボコにやられたが、
     9時間も浮いていて、沈没。(生存者多数)
一番艦の大和は特攻攻撃の途上で2時間で撃沈された。(生存者はわずか)

今の物価換算だと1隻600億円~4000億円?  
いや当時の国家予算との比率だと1隻2.4兆円?
LNGタンカーに乗せてもらったことがあるけど、全長250mなんて今では普通だけど。

20~23cm厚の甲板! 41cmの厚さの舷側装甲! 50cm厚の艦橋防護! 
主砲の防護は厚さ1m!  口径46cmの巨砲も全て鋼鉄の塊。
物凄いトップヘビー(頭でっかち) 復元力は大丈夫だったのか?
 
鉄は意外と単価が安い。1キロ55円? 漁船のデカイ鉄アンカー(錨)なんかタダ同然だ。
外板の長さX幅が2倍になれば面積(使用材料)は二乗で増える。水の摩擦抵抗も増える。
もっともフネの幅は、スピード(抵抗)に絡むのでそれほど広げられない。
長いフネほど細長くなるので相対抵抗は有利になる。

体積(容量、排水量)は三乗で増える。大きいフネのほうがコスパがいい。
同じコストで巡洋艦などを2,3隻作るほうが割高になる。
なぜなら鉄の部分以外の設備は、フネの大きさにかかわりなく、カネがかかるから。

実際には、仮想敵のアメリカの戦艦がスエズ運河を抜けるため、船体幅が制限されてた。
大和は、強大な主砲の発射反動のため、アメリカより大きくしたが、長さは多少抑えた。

空母は、艦載機が必要だから戦艦より高くつく。
艦載機の離陸、着陸のために大和より高速が必要!
しかも広い甲板だから、上空からの攻撃に対して防御力はほぼゼロ。
防御艦隊が周囲を固めないとダメだ。魚雷が来たら避けられない。
現代の1機100億円の艦載機を考えれば、当時の戦艦は割安なのか?  
  
兵員から「大和ホテル」と揶揄された山本五十六の旗艦。
冷暖房完備、風呂完備、アイスクリームも、ラムネも作れた。
ハンモックではなくて2段ベッド完備。
乗員2500人分の厨房もあった。

食料を現地調達(略奪)して自炊してた陸軍からは恨まれただろう。
上級将校は贅沢三昧だったのか?
南洋のトラック島泊地に停泊したまま、ロクに出撃しなかったからか?

厨房の煮炊きは、メチャ巨大な機関が回ってるから熱源は有り余ってる。
冷房は、大量の弾薬庫の自然発火防止のため必要だった。
でも、さすがに燃費はリッターあたり65センチ!そう簡単に出撃できない。

その対抗案として、ウオーターバラスト室を左右に設けた。
片側に浸水したら反対舷に注水してバランスを保った。
だから魚雷を1発食らっても乗組員は気が付かなかった?

このバラストタンクを最大限に活用した「武蔵」は最後まで横転しなかった。
アメリカ海軍は大和の時は、傾き始めた左舷だけに魚雷を集中攻撃。
大和はバラスト注水を使い切って横転した。

「之の字」(のの字)ジグザグ操舵で魚雷や爆弾の雨を逃れるなんてムリだ。
一番効果を上げたのは米海軍の雷撃機だったのかも?

ただし魚雷は駆動機関や姿勢制御、誘導装置が内臓され、家1軒分くらい高価、
なおかつ1トン近い爆薬が詰まってるので重い。
これを抱える雷撃機は鈍足で、しかも海面スレスレで直進しなければならないので
撃墜され易い。自殺行為だ。
ミッドウエイの緒戦では、アメリカ軍の雷撃機は全部、ゼロ戦に撃墜された!

なので米軍は高度2000m(2000ftのマチガイ?)から落とす航空魚雷を開発していた。
スピードは鈍かったが、一度に大量に落とした。物量作戦だ。とても避けられない。
日本軍はこれを大型爆弾だと勘違いした。

敵の砲弾が届かない「アウトレンジ戦法」といったって、、、
そもそも45km先まで届く巨砲で、水平線に隠れた敵艦にどうやって命中させるのか? 
遅ればせながらレーダーはあったが水平線の向こうは映らなかった?
搭載していた7機の着弾観測機は2機に減らされ、発艦する機会は無かった。
敵の空母は、もっと遠い100km先から戦闘機を発進できたのだ。

巨砲を発射するときは味方に警報を出す。
デッキに居たら爆風で内臓破裂死ぬ!いやはや危険な怪物だ。

書きかけです。








ボマー・マフィア 東京大空襲の真実

図書館で、また新刊本を発見。
「爆弾マフィア」とは物騒だが、イタリア・マフイアとは関係ない。
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「ボマー・マフイア・東京大空襲」  精密爆撃の理想はなぜ消えたか?」
        マルコム・グラドウエル著  光文社刊行

別項で既にたびたび書いたが、私は5歳のときに東京大空襲に会い、母子3人で生き抜いた。
林家三平の奥さん、海老名香葉子さんも東京大空襲で天涯孤独になったことで有名。
だからずっと真相を知りたかった。

広島で20万人、長崎で10万人、東京大空襲で10万人が1日で死んだ。
なのに東京には小さな「大空襲博物館」がポツンとあるだけ。(行ったことないけど)
すっかり忘れ去られている。一体、何なんだ!

東京大空襲は、米軍の冷酷無比の「カーチス・ルメイ」が実行した。
なのに戦後、日本政府(佐藤栄作首相)がヤツに旭日勲章を与えた!
佐藤栄作といえば安倍首相一族だ。この一族はどこまで人をバカにしているのか?
ここまではマチガイはないのだが、更に深いバックグラウンドがあったのだ。

要約すると、、、
米軍が最高機密として来た「ノルデン爆撃照準器」による高空からの精密爆撃は、
実は、、、、ほとんど役に立たなかった。
なので、東京大空襲では焼夷弾・つまりナパーム弾による低空侵入、無差別絨毯爆撃に
切り替えて大成功した。
だがこれはルメイが独断で考えてやったことではなくて、別なチームが考えたことだった。
「それがやれる冷酷無比なルメイ」を上部が抜擢したということらしい。

ノルデン爆撃照準器は、オランダの変わり者の天才・ノルデンが独力で開発、製品化した。
この照準器は、やたら複雑な初期のアナログ計算機とジャイロを内蔵した代物で、
高度、空気密度、風向、風速、気温、地球の自転!による爆弾軌跡の偏向を計算して
照準を合わせる。なので迎撃を受けない高空から落としても酒樽に命中する!
という甘い売り込みだった。

よく考えれば眉唾ものだ。気温、風向、風速は高度によって層状に変化する。
熱気球はそれらを利用して操縦してるのだから。

当時、どこの国でも「空軍」は無かった。
小さかったアメリカ陸軍航空隊の「爆撃マフィア」研究グループがノルデン照準器に着目し、
熱狂的に支持した。
「軍事産業のうち、特に基本部品を集中的に生産している工場だけを精密に叩けば、
武器の生産が停止する。そうすれば無差別爆撃をしなくていい」
「悲惨な地上戦を早く終わらせらる」という理論に傾注した。
今で言う「サプライ・チェーン」の分断だ。

この時期、イギリスはドイツに爆撃を繰り返していた。
だが損害のはなはだしい昼間爆撃を中止、夜間の無差別爆撃だけに切り替えていた。
「爆撃マフィア」の理論を真に受けた米軍は、これを実証すべく、イギリスに乗り込み、
反対を押し切って「昼間精密爆撃」を宣言した。
ここでアメリカ爆撃隊の先頭に立ったのが「爆撃マフイア」派のエリート、
ヘイウッド・ハンセル。ジュニアだった。
そしてそこには、、、同期の「叩きげカーチス・ルメイ」もいた。

実は、ノルデン照準器には弱点があった。
1.昼間、目標を真下に目視出来なければ使えない。雲があってもダメ。
2.目標地点到達までの最後の航程の7分間は直進しないと照準が合わせられない。

現地の天気が悪ければ成功しない。
その上、パイロットは迎撃を回避できない「死の7分間直進」を恐れて目標から逃げる。
なのでちっとも命中しなかった。
冷酷無比のルメイは「7分間の直進を避けたら軍法会議だ」と部下を叱咤。
その代わり、自らも爆撃先導機に乗った。勇猛だったのだ。

いっぽうハンセルは「軍需基本部品」としてドイツ・シュバインフルトの
ベアリング製造工場に着目。ベアリングが無くてはほとんどの武器はできない。
だがその工場群はドイツ真深部にあった。そこへ行くだけでも危険だ。

その途上のレーゲンスブルグにはメッサーシュミット戦闘機の工場もあった。
そこで、、、まずルメイの部隊が戦闘機工場を爆撃し、敵戦闘機を引き付けておく。
すぐあとをハンセルの本命部隊がスルーすることにした。陽動作戦だ。

だが悲劇が起きた。
当日の朝、イギリスは猛烈な霧に覆われた。
B17爆撃機で計器離陸の訓練を重ねていたルメイ部隊だけが離陸に成功、
だが10分後に離陸しなければならないハンセル部隊は計器離陸の訓練をやってなかった。
なので霧が晴れた1時間後に遅れて離陸。当然、作戦はやる前から失敗だった。

予測通り、ルメイ部隊は猛烈な敵戦闘機の迎撃によって甚大な損害を受けた。
なのに、、、スルーするはずのハンセン部隊は、敵戦闘機が燃料補給する時間を与えたので
再び上昇してきた戦闘機郡により更なる損害を受けた。陽動作戦はムダに終わった。
多くの部下を死なせたルメイにとって長年、それがトラウマになっていたのだ。

なんとかベアリング工場群に到達したハンセル部隊はノルデン照準器で精密爆撃を
決行したが、雲に遮られて大した成果はなく、帰路も敵の迎撃にあってさんざんだった。
米軍は大損害を受けて、ベアリング工場への爆撃は1回で中止された。

実は、懲りずに、もう1度やっていれば成果はあったのだ。
戦後、分かったことだがベアリング工場群の1/3は壊滅していたのだ。

話変わって、米軍はケミカル化学者に効果的な焼夷弾「ナパーム弾」の開発を指示。
砂漠に日本家屋とドイツ家屋の家並みを再現。
これをナパームで実際に爆撃して、木造密集家屋への無差別爆撃の劇的な効果を確認。
軍は方針を転換した。

いっぽう、マリアナ諸島、テニアン島を占領した米軍はB29用の滑走路をあっという間に完成。
「爆撃マフィア」のハンセルは、ここの司令官に欧州から転進、昇進した。
そしてまたもやノルデン照準器で軍需工場だけへの高空精密爆撃を開始。
B29は迎撃を受けない高度12000mからの爆撃が可能だったので怖いものなし!

ところが、、、、富士山に到達したB29が東に進路を向けると、ものすごい追い風になった。
今でいう偏西風、ジェット気流だ。当時、その存在はほとんど知られていなかった。
なのでノルデン照準器の準備が間に合わず、目標の「中島飛行機工場」の
上空を通過してしまった。
いっぽう西へ向かえば向い風になってB29ですら進めない。
「爆撃マフイア」の理想とする精密爆撃は一向に成果が出ない。

そんなある日、米軍上官がテニアン島を視察にやって来て、唐突にハンセルに更迭を命じた。
後任は、、、、かの「叩き上げルメイ」だった。

ルメイは、ノルデン照準器による精密爆撃など、どうでもよかった。
だがルメイといえども解決策は何も考えていなかった。

ジェット気流をいかに避けるか?
答えは一つ、ルメイは日本軍の迎撃を覚悟で2000m以下の低空侵入しかないと決心。
東京上空に四角の面積を定め、まずその各辺にナパーム弾を目印に落とす。
そして後続がその内側に絨毯爆撃をするだけ。ノルデン照準器は不要となった。
そして、、、、東京市民に逃げ場はない。

準備万端の当日。
爆弾満載のB29は向かい風でないと離陸できない。
なのに、作戦のその日、なぜか無風に、、、そしてクルクル風向きが変わった。
それは大嵐の前触れだった。当時の天気予報は不十分だったのだ。
もし離陸していたら出撃したB29は全機が帰還不能、全滅しただろう。
ルメイは強運だった。

大嵐の直撃が過ぎた6日後、作戦はただちに再開。
夜の東京上空は、なんと日本軍の迎撃なし!
高度2000mからの絨毯爆撃は完全に成功。
折からの季節風の大西風で広範囲が大火災となった。後続の爆撃機は床が熱くなった。
爆撃後の帰途、240km離れても東京の空が真っ赤に見えた。

あとは戦略上、どうでもいい日本の地方都市50ケ所以上を次々と無差別爆撃した。
全てがルメイが命令したことだ。
目的は、、、次なる本土決戦、上陸作戦のためだった。
だが、原爆投下で全ては終わった。

書きかけです。


















飢餓地獄で生死を分けたもの

この本の大半は軍事関係なので、それ以外の興味深い点だけ抜粋した。
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「海軍設営隊の太平洋戦争」       佐用泰司著  光人社発行
    サブタイトル:「航空基地築城の展開と活躍」

日本軍には、海軍にも、陸軍にも「航空隊」があって「空軍」は無かった。
ということは陸軍にも航空基地設営隊があったのか?

それはともかく島嶼に滑走路を急造する、いわゆる海軍工兵隊の話である。
トップは技術将校だが下部組織は戦闘員ではない!ほぼ武器を持たない「軍属」である。
大工、船大工、溶接工、板金、機械加工、農民、元漁師、、、、雑多な構成だ。

陸軍の招集兵だって寄せ集めだが、それでも結果は大きく分かれた。
旧日本軍の「海軍工兵隊」は南洋の島嶼で生き延びた。
だが島を守った陸軍は大量の餓死者を出したのだ。

なぜか? 工兵隊は軍属だったから!
民間人による自由な発想、創意工夫の迅速な実践。
民主的な指導者のもと、栄養学と衛生知識を駆使した自給自足ができたのだ。

いっぽうの陸軍というと、、、彼らはビンタ、体罰による恐怖支配。
命令に背けば営倉、軍法会議。だから誰もが上官の命令を待つだけ。
その上官も本部へ補給を通信するだけ、返事が来なくても手をこまねいていた。
命令が来なければ何もしない、何も出来ない。そういう体質になり切っていた。
結果として自給自足生活へのスタートが遅れた。それが致命傷になった。

何度も言うけど、そもそも大本営はこれだけ伸び切っていた前線を、どうやって兵站(補給)
するつもりだったのか?
中国戦線みたいに現地調達(民家の略奪)をするほどジャングルには住人がいない。
太平洋戦争そのものが、ほぼ補給が不可能な戦争だったのだ。   

兵站(補給)をないがしろにした日本軍であるから当然、工兵も単なる下働き扱い。
さすがに戦中後半には、これではいかんと遅まきながら軍隊化はされたが。
それでも戦闘集団が進出する前に飛行場や建物や給排水、トーチカなどを
建設しなければならない。
最前線の危険な作業ばかり。その割には小人数集団だった。
工兵隊には徴用工、、朝鮮人、ニューギニアの現地人がいた。
皆な、重労働の土木作業に駆り出される。日本軍は人海戦術だ。
アメリカ軍のように機械化されていなかった。

だから指揮官は部下の健康を第一に考えなければならなかった。
人が倒れたら仕事が止まる。熱帯での土木作業労働自体が極めて問題なのだが。
栄養失調、マラリア、熱帯性熱病、赤痢、疫痢、トイレの処理方法、、、
工夫に工夫を重ねた。部下は守られた。

未開の南洋、ニューギニアのソロン基地が舞台。
だが陸軍マッカーサーも海軍ミニッツも、上陸することなくスルー。
ここの滑走路を占領しても日本へは遠すぎる。大型機の空襲には使えないからだ。
滑走路が使えないように空襲は続いたが、日本軍機はもう皆無になった。
戦略的には置き去り、ニューギニアは主戦場ではなくなった。

その後は補給が途絶えた飢餓地獄!日本軍の船は全く来ない。
ニューギニアの日本軍15万人は孤立無援となった。
その生死を分けたのが「自活できない戦闘集団」と「自活出来た工兵集団」の差だった。

熱帯のジャングルだからいつもパパイア、バナナ、ヤシが実り、鳥や野ブタが徘徊してる。
食べるものくらいあるだろう、現にわずかながらも原住民は生活できてるし、、、、
いや、狭い島嶼に、あまりに多数の将兵が残置されたので、何でもかんでも食いつくしたのだ!
苗すら食い尽くした!海に魚を取りたくても散発的な空襲にやられる。

工兵集団は、食いつくすことはしなかった。
わずかな種や蔓を入手して、なんとか栽培できないかと工夫した。
だが米も麦も、大豆も芽が出ない。コーリャン、トウモロコシは芽が出た。
いっぽう、かぼちゃや甘藷(サツマイモ)は蔓から根が出た。
仕方なく、低カロリーだが収穫が容易な甘藷が主食になった。
意外なことに常夏、南洋では秋野菜、、、大根、ナスは種を付けないのだ!
理由は寒い冬の休眠がないから。
カボチャ、唐辛子、トウモロコシは種が取れた。
最後には苦労して作った滑走路も、泣く泣く掘り返して広大な畑にした。

各自が持つ徴兵前の民間技術、ノウハウを活用して、あらゆる工夫を実行に移した。
トラックの車輪で回す製材機、石臼!旨くないコーリャン、トウモロコシを製粉して焼いた。
農具、工具、漁労のはえ縄、釣り針、カヌー作り、漁船作り、製塩、、
ワナによる狩猟、現地人から譲ってもらったニワトリやアヒルを飼って卵を得て増やした。
ここでも多少は民主的だった組織風土が良い方向に向いた。

一方の陸軍はというと、自分で考えて工夫する体質を失っていた。
ひたすら命令を待ち、補給を打電した。だが当然、本土からは何も来ない。
何も生産しようとしない。
ジャングルを伐採して畑を作ると、上空から敵に見つかるからと躊躇した。
結果、栄養失調で大半がヨロヨロになって、とうとうジャングルを伐採する体力すら失った。
15万人の陸軍は「ジャングルの俘虜」と化した。

炭水化物、タンパク質はなんとかなっていったが、ビタミン食品が入手できなかった。
飢餓の中で脚気や、新鮮野菜不足によるビタミン不足に直面したが、
工兵隊は、あらゆる野草、植物を試み、これらを栄養知識で切り抜けた。

あの悪名高き、明治の陸軍軍医総監の文豪「森鴎外」は、白米偏重の陸軍食による
「脚気」を最後までビタミンB!欠乏症とは認めようとせず、留学で習った「細菌説」に固執した。
その結果、日露戦争では何万の陸軍将兵を戦わずして脚気で死なせた!
海軍はいち早く、これに気が付いて脚気死亡者はほぼゼロだったというのに。

富士山頂上測候所を開いて、初めて越冬した野中至夫妻も結局は新鮮野菜不足で倒れた。
我々は食物繊維のために野菜を食べてるわけではない。
ビタミンは人間が生きていくためには非常に大切なのだ。

書きかけです。




中国大陸打通作戦、知られざる日中戦争

またまたトンデモナイ本を見付けてしまった。

  「中国行軍 徒歩6500キロ」  掘 啓 著    川辺書林

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著者は、昭和18年、赤紙(招集令状)で徴兵された21才の鉱石分析技術者。
すでに戦況が傾き始めていた日本軍が、起死回生策の一環として計画した「湘桂作戦」
通称「大陸打通作戦」の、一兵卒としての体験記だ。

最初に、、、なんでこんなムチャクチャな作戦がまかり通ったのか?
20㎏の重装備で、1日に昼夜兼行で20キロ、ときには40キロも徒歩で行軍する。
戦闘となれば、分解した迫撃砲部品50㎏を背負って走る。
1年かけて中国大陸を徒歩行軍、そして転向(往復)した。
10万人もの戦病死者を出した。
軍隊は人間を消耗品としか見ていない。

もっとも、ごく最近、アメリカ海兵隊特殊部隊の入隊行軍でも死者が出て、
過激な訓練が問題になったばかり。どこの国の軍隊も人間の限界を無視している。
自衛隊でも、かって館山の基地だったかな? 重装備させた18才の新人(新兵)に対して、
深い水路を突破する訓練をさせた。結果、何人かが溺死した痛ましい事故があった。

昭和18年といえば既に、南方からのシーレーン(海上輸送)は、アメリカの潜水艦の攻撃で
絶望的になっていた。そこで、南方資源を陸路ベトナム経由で中国大陸の真っただ中の
鉄道とその沿線道路で日本に運ぶという壮大な戦略。
沿線の中国軍拠点を次々と陥落させて、そこに守備隊を駐留させるという。

そんなこと自体が可能とは到底思えない。
広大な中国大陸は蒋介石軍と毛沢東軍の支配下にある。
拠点を一時的に占領したとしても、いずれ守備隊は孤立する。
長く伸び切った戦線をどうやって維持する気だったのか?

作戦前の南京での7ケ月の新兵訓練は、古参兵が「連帯責任懲罰」、つまり1人が
ミスすると、その班の全員に対して往復ビンタ、拳骨制裁をする日々。
「戦闘になったらあいつを後ろから撃ってやる!」との陰口まで。
だがいざ戦闘の時、人数が減っても困るし、誰も実行はしなかったが。

上部からの体罰禁止が出ても、古参兵は見えない背中へのバックル付き革バンドでの
ムチ打ちをやった。それも教官に露見すると最後は尻打ちへ。ほぼ暴力団だ。
装備の内部検査で不足があると大変なことに。員数合わせのために他の隊から盗んでくる。
盗まれた隊は大変だ!更に別な隊から盗んでくる。

昭和19年5月、南京の南東、揚子沿岸にある武昌(漢口)から50万人が行軍開始。
迫撃砲手としての行軍開始、直線距離4200kmの鉄道に沿って、幅120kmに展開、
資源補給線路の確保を目的に、沿線の中国軍と交戦、排除しながら、
延べ6500kmの徒歩行軍と侵攻の末、ベトナム国境へ到達。
1年後、出発地に戻ったあとに敗戦。

戦車100台、火砲1300門とは言え機械化部隊ではない。ほぼ人力部隊だ。
6万7000頭の軍馬、現地調達のロバの背中に迫撃砲を積載して徒歩で行軍、
えばった隊長だけは馬の上。
先頭は歩兵集団が交戦する。それを後方から迫撃砲で支援。
雨の中、泥の中、腰上までの大河渡渉、マラリア、赤痢、下痢、血尿、疥癬、回虫騒ぎ。

食料は現地調達、といっても、全て通過する村からの略奪で賄った。
中国人民は日本軍が来る前に食料を隠して山へ逃げた。日本軍はその食糧を捜索する。
隠してあった米。貴金属も奪取。家畜は解体して肉に。
日本軍の通過した跡には何も残らなかった。
弾薬の兵站(補給)だけは確保されていたので不足は無かった。
なので「インパール作戦」のような壮絶な餓死者は出なかったが。

行軍中は米空軍の爆撃、機銃掃射に晒される。
なので昼間は行動できず。夜間や悪天候を利用して行軍したから、なおさら辛い。
あまりの辛さから、新兵の手榴弾自殺が続発。

当然、捕虜の拷問、虐殺もやった。毒ガス弾も使ったが、作戦途中で天皇命令が出て
回収された。東京空襲でアメリカ軍もガス弾を使ったら大変だというのが理由だった。

米空軍の爆撃で一瞬のうちに中隊200人が壊滅。300人のうち生き残りが7名の中隊も。
初期の17日間で中隊の30%が脱落。
300キロ行軍したところで補充新兵の脱落者は半数に及んだ。
虎!にまで襲撃された。唯一の救いは満州のように寒くはなかったこと。
南進するほどに温暖になった。

出発地に帰着して、南京へ向かう途中で敗戦の報が。
蒋介石軍は、ジュネーブ条約を守って捕虜虐待はせず。
そこから南京までの復員ではもう食料の略奪は出来ず。
往路で略奪した銀貨で物々交換して食料を入手。
全行程を通じて日本軍は、まるで強盗、ドロボウ軍隊だ。


以前にも書いたが、私が生後3ケ月の時に満州に出征、敗戦でシベリアに抑留され、
4年後に現地で死亡した。
何で日本人が満州に進出したのか?長年の疑問でした。

簡単に言えば、、、
日露戦争で勝ったけど、ロシアは中国に侵攻して巻き上げた「満蒙」つまり満州を
日本に譲っただけだった。「貰ったんだから日本の物だ」と思っていたが、
もともと中国の土地だ。そこには中国人が住んでいてた。

そこに悪名高き「関東軍」を送り込んだ。
さらに「満蒙開拓団」を送り込み、中国人から安値で土地を収奪した。
期待に反して、資源といえば石炭ぐらい、石油は出なかった。辺境の地である。
農業しか利用価値がない。
「満鉄」といっても既存の中国の鉄道を接収しただけのこと。
満鉄の関連事業だけが日本人のビジネス、それも赤字路線。

当時の中国は軍閥だらけで統一されてなかったので、ゲリラ(匪賊)活動で対抗。
その中で関東軍がやりたい放題。「張作霖爆殺」とか、{盧溝橋事件」とか。
その収拾をすべきところを、逆に近衛内閣が、抗日感情を見誤り、拡大させた。
結果、力を付けていた蒋介石軍と全面衝突。
蒋介石軍は毛沢東軍と共闘を組んだので、いずれ強大になった。

一方の日本海軍も「上海事変」を見誤って拡大させた。
こっちも欧米に後押しされた蒋介石軍に圧倒されて日本は大損失、敗退。
それを陸軍の関東軍が押し返すべく、南京まで侵攻。「南京大虐殺」で世界問題に。

その結末が「大陸打通作戦」、、
だが敗戦後の日本では「忘れられた大作戦」となった。

物凄い浪費だ。日本軍というのは日本の国家予算の5倍を消費した。
そして何も残らなかった。

書きかけです。


プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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