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シトロエン社の中央アジア横断探検

知る人ぞ知る究極のオフロード・アドベンチャー、新刊本だ。渋い表紙に惹かれた!
クリックして拡大してください。当然だが本文内の写真は昔のコピーなのでヒドイ。
450ページ、厚さ3.5cm という膨大で難解な内容、読むのにヘコタレた。
シトロエン隊

「中央アジア自動車横断」  ジョルジュ・ル・フエーベル著  河出書房新社刊

フランスの栄光の時代、シトロエン社の全盛期に、創業社長が大金をはたいてやらせた、
マルコポーロのシルクロードを車で踏破するという3年がかりの壮大な冒険記、探検記。
ラクダ道しかない砂漠、辺境の地だから当然、後輪キャタピラの「無限軌道車」である。
西からと、東からの2隊に分かれて、途中で合流。
この本は西隊に同行した文筆家が書いた。

カーマニアなら知ってる「シトロエン車のフード・エンブレム」のデザインは
創業時の自社製品だったユニークなギアの「八の字歯型」だ。
この冒険では砂漠、山岳の中で、デフギアからエンジンまで、文字通り、
オーバーホール(全分解修理)を繰り返しながら踏破した。

当然、砂漠、辺境にはガソリンスタンドは全く無い。なので予めほうぼうに大量にデポ。
水は点々と存在するオアシス頼み。予備部品は無線で本国に連絡、ラクダの隊商に運ばせた。
岩だらけの山道はツルハシで広げた。
ヒマラヤの峠を越えるときは、さすがに道幅が不足。断崖は各所で崩壊してる。
なのでクルマを30kg単位に分解してポーターに運ばせた!
こりゃ、クルマによる完全踏破ではないのでは?

計画を立案し、隊を率いた隊長はこの計画の前にもシトロエン隊を組織し、
アフリカ・サハラ砂漠の踏破を成功させていた。「パリ・ダカール・ラリー」のルーツだ。
その勢いでシルクロードを狙ったのだが、現実は厳しかった。
探検が終わったときに、隊長は「北京の悪い風邪」にやられて肺炎で急死。

時は、フランス、イギリス、ドイツの列強が、中近東、インド、東南アジアの
大半を植民地として統治していた第二次世界大戦直前の物騒な時代。
当然のように武装、機関銃まで隠し持って出発した。
3年経った冒険の終点では、まさしく日本軍による上海事変が勃発していた。

当時の中国の辺境は、異民族問題、宗教間闘争、アヘン、貧困、汚職、賄賂、
盗賊、匪賊、馬賊、軍閥が群雄割拠する戦乱時代。
台頭した毛沢東の赤軍も相手にしながら、蒋介石軍が日本と戦っていた。

度重なる列強の探検隊による、史跡からの盗掘、持ち出しに中国は怒っていた。
最後は紛争に巻き込まれて探検隊は長期に拘束される事態も。
シトロエンの社長も能天気者だった。

現代ではイラン、イラクの中近東は反欧米一色の火薬庫同然。
中国もウイグルとかチベット問題とかあるし。
とてもフランス人がクルマで通過することは不可能だ。

植民地統治の栄光の探険時代が忘れられないフランス人。
いまだに東洋人への差別がある。
ポリネシアのサンゴ礁の島で水爆実験を強行した。
アフリカに傭兵外人部隊を保持している。
フクシマ原発事故の時を置かず、サルコジ大統領が怪しげな原発会社を引き連れて
日本に乗り込んできた。そして役にも立たない放射性物質の浄化装置を高値で売りつけた。

シトロエンは終戦直後から立ち直り、宇宙船のようなシトロエン「DS」シリーズを
いち早く世に出した。ユニークな技術テンコ盛りだったことは尊敬に値するが。
シトロエン「DS」は、私が中学生だった1955年、小林章太郎が編集してた
「モーターマガジン誌」(絶版になってる)の表紙を飾ったのが最初だと思う。

シトロエン「DS」の出現には驚愕した!こんなクルマがホントに走ってるのか?
まさしく宇宙船だった。
だが後ろつぼみの奇妙なスタイリングには好き嫌いがあるし、新技術には故障も多かった。
ドゴールは「DS」を愛用し、マシンガン攻撃による暗殺を逃げ切った。

それより私の好みなのは戦前型シトロエンの「トラクシオン・アバン」だ。
戦時中のナチス、ソ連、あらゆる映画に出現する。
戦前型とはいえ、「DS」が販売されるまでは生産されていた。
だからジャン。ギャバンのギャング映画にも出てくる。
フランスの植民地だったベトナムでは20年前までタクシーとして使われてた。
DSC00387.jpg

車名の意味は文字通り{前輪駆動」 シトロエンはFFの先駆者なのだ。 
ただし等速ジョイントはまだ世に無かったので旧式のカルダン・ジョイント(ジープと同じ)である。
コーナーではゴキゴキと音、振動がする。壊れやすい。

戦前型のクラッシックカーはフレーム付きで、その上にボデイが乗っていた。
だから馬車みたいにどれも腰がやたら高い。
いっぽうアバンはモノコックボデイ、フレームが無い。
私は1度だけ友人が借りだしてきたアバンに乗せて貰ったが、
とにかく床がモノスゴク低い。FFだからペラシャフトのトンネルも無い。
現代でも十分通用する。

その上、運転席から前のエンジン、ミッション、デフの全てが一体で、
その全体が前半部の強度部材を兼ねている。だから後ろ半分のボデイから簡単に切り離せる!
ボデイだけを交換すれば、いろんなクルマ、、、、クーペ、オープンカー、バン、霊柩車!
なんでも簡単に変身できる。
この構造は、プロペラヒコーキの「ペラとエンジンが後ろのボデイにくっついている」
のと共通の考え方だ。

書きかけです。




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クルマのフライ・バイ・ワイア

フライ・バイ・ワイアが採用されたのは多分、ハリアー(垂直離着陸機)あたりかな?
なにしろ人間の五感だけではホバリングできない。コンピューターコントロールしなければ
成立しなかった。
つまり、フライ・バイ・ワイアーというのは単に電線だけで伝達するという意味ではない!
中間にコンピューターを介在させることで、人間には出来ない「素早い、途切れの無い
フィードバック」を実現させることだ。
だから、フライ・バイ・ワイアはデジタル制御なくして成立しない。

クルマも超高速の人間の五感では追いつかなくなるようなF-1には
「ドライブ・バイ・ワイア」が必要なのだろう。
普通のクルマでも、危険な条件の中でも安全に走れるという目的とか、燃費最適化、
排気ガス最適化を含めてドライブ・バイ・ワイアーと呼ぶようになった。
最近では航空機のフライトレコーダーのような[クルマのドライブレコーダー」としての
機能が求められてきた。事故発生時の証拠記録だ。

遠隔アナログ電線制御は昔からあった。だがこれらはドライブ・バイ・ワイアーと
呼ばない。大型設備、船舶など手動では重くて操作不可能なものが主体だった。
それらには油圧、サーボモーターやフイードバック回路などを付け、
制御理論も整備されていた。だが電流、電圧をアナログコントロールしても、
特に相関性が非線形なものは苦手。
パルス電流、パルス流量といったデジタル的な制御も考えられていたが、
レスポンス(タイムラグ、遅れ)、メカニカルなアナログ・センサーが問題だった。


私が自動車会社の設計に潜り込んだ昭和35年当時、最初に配属された「補機設計課」
では先輩達が「コントロール系統」を担当していた。
アクセルペダル、クラッチペダル、ブレーキペダル、ギアチェンジレバーなどなど。
もちろん、大抵がロッド、リンクを用いた「メカニカル制御」である。
「オートマ」なんて見たこともなかったから全て「マニュアル」の話だが。

さすがにブレーキは戦前の「ロッド式ブレーキ」は廃止され、油圧式に移行していた。
但し前にも言ったけど、まだ「シングル・マスターシリンダー」だったから
油圧が抜ければノーブレーキ!「田んぼに落っこつた」なんて事故は日常茶飯事だった。

サイドブレーキ(ハンドブレーキ)は早い時期から「裸のワイヤー式」だった。
今でもあまり変わらないかな。

アクセル系統は「ロッド式」つまり棒とジョイントピンの組み合わせでキャブレターに
繋がっていた。
エンジンは主として左右に首振り振動するから、それを避けるために
「ダッシュパネル」の面からエンジン軸に並行にキャブまでロッドで持っていく。
アクセルリンケージ

クラッチはロッドとアームでピンを介在してミッションに持っていく。
ここでもエンジン軸に並行にロッドを配置するから振動は伝わらない。
だがクラッチも大型車から順番に油圧式に切り替えられていった。

ちなみに、、、
前も言ったけど,、、、バイクなんかは同じメーカーでもモデルが違うとブレーキペダルが
右足だったり左足だったりマチマチだった! 
きっと、ユニット設計が先に出来上がってしまって、そのあとからコントロール系統を
後付けしたのだろう。この悪いプロセスは、あとあとまで自動車設計でも継承されていた。
ダイレクト・シフトレバー
ギアチェンジレバーは、、、トラックならいきなりミッションの上から長く生えてる!
だから年中、ブルン、ブルンと振動してギア抜けの原因になった。
セミダイレクト・フロアシフト
もっともスポーツカーの一部ではこの「ダイレクト・フロアシフト方式」を有難がっていた。
ただし「なんちゃってダイレクト」つまりミッションの後ろあたりの届くところまで
レバーで持ってくる「ショートリモコン・ショートレバー」なんだけどね。

乗用車のギアチェンジは、ハンドルの横からレバーが生えてる「コラムシフト」が
高級志向の主流だった。なぜって?当時のアメ車が全部そうだったからだ。
タクシーは前席のベンチシートにもお客を乗せるから、絶対に「コラムシフト」でないと
ダメだ。アクセルと同じくロッドとアームでミッションまでつないでいく。
左右に振れるエンジンの振動の間は「クロスシャフト」つまり車体とミッションの間を
横断する左右摺動シャフトで橋渡ししていた。
コラムシフトリンク

前にも言ったけど、このクロスシャフトが曲者。車が使い込まれるとエンジンマウントゴム
もヘタる。そして車体に対するエンジンの位置がだんだん左右方向にズレて
摺動ストロークを超える。そしてある日突然、、シャフトが抜け落ちる!
高速道路でシャフトを路上に置いてけぼりにしたり、前にも言ったけど、新雪の道路を
走っていて、車体とエンジンの間に雪が詰まり、その間隔が開いてシャフトを雪の上に
置いてけぼりにしたことあり。明らかに欠陥構造なんだけど長らく採用されていた。


補機設計課のアイデアマン課長は「アクセル系統をなんとかせい」と騒いでいた。
「ブレーキと同じに油圧はどうか?エア圧ではダメか?」「電動は?」とか、、
図面まで書いたが試作には至らなかった。どれもコストが高すぎる。
ワイアーコントロール

戦中の軍用機の「動翼」のコントロールはワイヤー式だった。
これだと被弾しても細いワイヤーには弾丸がめったに当たらない。
1本の裸ワイヤーで引っ張って、リターンスプリングで戻す。
または2本の裸ワイヤーで行と戻りを分けて押し引きする。
ゼロ戦の昇降舵はワイヤーの途中にバネを入れて、「非線形コントロール」にして
好評だったとか。

ところが、、、
アメ車のエアコンのバルブコントロールには既に「単線」の安物ワイヤー式が多用
されていて全く問題なかった。
即ち、インナーワイヤーとアウターケースがセットになっている。
1本のワイヤーで押し引きが出来る。
インナーワイヤーは押すと座屈する。それをアウターケースが抑える。
設計者はワイヤーの取り回しと長さだけ決めればオワリ。面倒なリンク設計はなし。

欠点は摩擦が大きいので動きがシブる。古くなると中でワイヤーが錆びて動かなくなる。
中にクリースを封入することで切り抜けた。
最初は芯線が撚られたワイアーでアウターケース付きのアクセルワイヤーが
小型車から採用された。設計は簡単、組み立ても簡単、コスト最小!
インナーワイア・アウターワイア

そのうち芯線にテフロンコーテイングしたものが出現した。そうなると劇的に性能、
耐久性が向上した。あっという間にアクセルもクラッチも、ギアシフトも、
全てワイヤー方式で成り立つようになってリンク式は完全に駆逐された。

考えたら、自転車もバイクも今は「アウターケース付きのワイヤーコントロール」が
当たり前だが、昭和の自転車、バイクは全て「ロッドコントロール」しかなかったのだ。


ついでの話
日産が、かって作ていた大型トラックに、日産デイーゼルの「デコンプ」付き
新型エンジンが採用された。「デ・コンプレッション・バルブ」の略。
スターターの回し始めはシリンダーの圧縮をスカスカにしておく。
ある程度回転が上がったら、デコンプを閉じるとエンジンが始動する。
エンジンのヘッドにあるデコンプレバーから運転席レバーまでリンクで繋げなくては
ならない。

私は、延々とリンク設計するのがめんどくさいので困った。
そこで、乗用車のハンドブレーキロッド(パイプ)を流用することを思いついた。
それを1mくらい延長したものを、ダッシュパネルを貫通させて、直線でエンジンヘッドに
接続してしまった。
リンクは全く無し。当然、エンジン振動がロッドに伝わる。だがコストは最小!
デコンプレバー

あるとき、乗用車の市場調査のために、横浜からはるばる鹿児島まで夜行列車で
ユーザー訪問調査に出張した。ヒコーキなんて許されなかった。
迎えてくれたのは「ヒマなトラック営業担当部長」だった。雑談してたら話題が途切れた。
突然、「今度の新型トラックのデコンプレバーはすごいですね」
「ロッドが一直線に繋がってる」「考えればあれでもよかったんですね」
「整備しやすいし故障するわけがない」とベタ褒めしたのだ。
設計した当人は目の前に居る。まさか手抜きとは言えず、小さくなってた。
世の中狭かった。

ヨットに狂ってから必要に駆られて「小型船舶操縦士」の免許を取りに行った。
先ずは4級免許、教習にはモーターボートを使う。教官は「前進、エンジン停止、後進」
と叫ぶ。アレ?「前進、中立、後退」じゃないの?
インボードエンジンでもアウトボーエンジン(船外機)でも、エンジンは停めない。
回したままだけど。

次に一級免許を取りに。教習には中型の釣り船を使う。教官は元マグロ船の
船長だった。
ここでも「前進、エンジン停止、後進」だった。もちろんエンジンは停めないが。
4月の東京湾で講習中、突然、前線(ホワイト・ストーム)に襲われた。葛飾北斎の
「品川沖」の再来だ!だが、マグロ船長少しも慌てず見事に三角波を乗り越えて
見せてくれた。

最後の試験はタグボートで、荒れた江の島の岸壁に着岸テスト。
大波で岸壁に衝突寸前、危機一髪!ここもマグロ船長の後進一杯に助けられた。

ずーっと考えててようやく分かった。フネの免許は全て「本船」を基準にしているのだ。
本船は、ブリッジで発声しながら「エンジン・テレグラフ」を「チン・チン」と回す。
そうすると機関室のインジケーターもチン・チンと鳴って回る。
この間が何で繋がっているのか?かっては鎖とかロッドだったらしい。
テレグラフ

戦艦「三笠」の時代なら砲撃を受けてテレグラフをやられたら、、、、
伝声管からの音声頼りになる?
これこそが究極の「フライ・バイ・ワイヤー」である!いや「フライ・バイ・エア」かな?

機関室はテレグラフの指示を復唱してエンジンを前進にしたり後進にしたりする。
だが本船にはクラッチなんて無い。ニュートラルも無い。スクリューとエンジンは直結してる。
後進するにはエンジンを一旦止めてから逆転させる!
幸い、蒸気機関もデイーゼルエンジンも簡単に逆転する。
だからモーターボートと言えども「エンジン停止!」だったのだ。ナンセンス。
さすがに最近はジェットスキー免許もあるし、改善されたと思うけどね。

なお、メッサーシュミットというマイクロカーは2サイクルエンジンなので、エンジンを停めて
点火時期を反対にズラすと簡単に逆転始動する。だから「前進、エンジン停止、後進」
が正しい。


書きかけです。





昔のクルマの型式認定テスト

最近、不思議なことばかり起こる、、、、ついてるのか、ついてないのか?

1.1時間に1本しか来ないド田舎の駅前踏切に必ずひっかっかる!
2.過疎地なのに、路地を出るとき必ず他のクルマと鉢合わせする!
3.ガラ空きの広い駐車場の片隅に駐車しても、必ず隣にムリヤリ駐車してくるクルマがある。

4.みんな例外なくモタモタとバック駐車しようとする。何で前向き駐車じゃダメなの?
  知人はバック誘導してて両足を骨折させられたことがある。
  最近も、自分の妻をひいて死なせた事故が起きてる!バック駐車は危険なのだ。
  原因は教習所では難しいバック駐車だけをテストする。
  だからそうしなければいけないのだ、と刷り込まれてるのだ。
  易しい前向き駐車なんか、テスト必要はないもんね。
5.この地の「ご当地走り」は、、、、、曲がるときに大回りする!
  右折するのかと思うとグルッと左折してくる。左折するのかと思うといきなり右折!
  大型トラックじゃあるまいし、「内輪差」がそんなにコワイの?
  
20数年前にドイツ人の友人宅にホームステイさせてもらった時の話、、、、、
1.ガソリンスタンドは、当時、もう全て「セルフ」だった!
  ドライバーが勝手にガソリン入れてから、コンビニ兼用のカウンターに料金を払いに行く。
  「食い逃げ」されないのか心配だった。
  日本には全くセルフなんて無かった時代だからホント、びっくりした。
2.踏切の手前では絶対、一時停車してはならない!
  止まったら追突されて、100%責任取らされる。遮断機は、レールのほうを遮断していた!
3.消費税はなんと16%! 但し食料品は無税だったような?
  老人が多かった。既に高齢化社会だったのだ。
  自動販売機はどこにも無かった。土日は店は全て閉店!
  コンビニはあっても24時間なんてゼロ、土曜の午後から閉店。
  スーパーの照明は省エネで暗い。 レジ袋なんてくれない。皆なエコバッグ持参。
  野菜は包装なし、「量り売り」、自分で測って新聞紙でくるむ、、
  飲み物のビン、ペットボトルはデポジット制、 昭和の時代だああ!
4.海岸は風力発電機のプロペラだらけ!
  アウトバーンには道路照明がゼロ!真っ暗!
5.車いす、ベビーカーが階段で行き詰まると、あっという間に周囲が集まって、
  協力してホイホイ運び上げる。終わると何事もなかったようにサッと散っていく!
  列車の椅子の足元に巨大な犬がうずくまってる。普通に主人のあとから乗降していく。
  大都会には怪しげな外国人が沢山ウロウロしてた。女性1人では地下道は歩けない。

  こんな昔にドイツは先取りしてた。日本は今だって後進国だね。
  ただし、歩道には犬のフンが点々と。踏まないように歩くのは難しい!

オット、また脱線した。
型式認定試験のことを立会試験という。運輸省(今は国交省(の試験官が立ち会うからだ。
役人用語では、クルマの型式認定、認可、承認、認証、といろいろ言うが、
英語だと「タイプ・アプルーブ」で通じる。

試験、実験、検査、と分かれるが、これもテストで通じる。
テスト・メニューがあらかじめ決まってるのが「試験、検査」
何が起こるか分からないから、いろいろやるのが「実験」だ。

もっともメーカーごとに呼び方はマチマチ。試作車を「号試」なんて呼ぶ。
テストコースなんて言わない。「プルービング・グラウンド」だ。どーでもいいと思うけどね。

自分でカスタムカー作った人は、それを車検場へ持ち込んで検査を受けられる。
保安基準に適合すればOK、型式証明の車検証貰って公道を堂々と走れる。
そういう小規模メーカーもあるし、カスタムショップもある。

だが何万台、何十万台と作るメーカーはそういうわけにはいかない。
開発が済んだ時点で、プロトタイプを運輸省(今は国交省)に持ち込んで、
「型式認定テスト」を受ける。もちろん、沢山の申請書類も提出する。
「保安基準」に適合してるかどうか?のテストである。
これに合格すれば「認定書」が貰える。

テスト項目は、、、、
緒元、寸法、重量の測定、ワイパー、ウオッシャーの試験もある。
サイドスリップ量、ヘッドランプ光軸、台上ブレーキ試験など、、、
これらは、調整すれば直るような、車検の検査とゴッチャの項目である。

50km/hからの急制動試験というのがある!合図と同時に思い切りブレーキを踏む。
タイアはロックして白煙を出す。路面にブレーキ痕が残る。
片効きして向きが変わってはいけない。
これって、、厳密にはブレーキシステムの能力試験とは言えない。
タイアの「消しゴム効果」の試験なんだよね。コンパウンドを変えれば変わる値だ。
デイスクブレーキよりもロックし易いドラムブレーキほうが短く停まる!
奇妙なテストだね。

「最大安定傾斜角試験」なんてのもある。
img074 (2)
空車で左右に、何度まで傾けたら横転するのか?を確認する。35度以上必要だ。
サイドカーなら25度、合格しなければ幅を広げないとダメ。
トラックなんて、積み方次第で簡単にひっくり返るんだけどねえ。空車って意味あるの?

あとは偽装とやらで問題になってる燃費、排ガステスト。
大昔は、旧東海道国道での実用燃費試験とか、箱根旧道での登坂試験もあったそうだ。
衝突時の燃料漏れ試験、、、実際にコンクリートの壁に正面衝突させる!
この時の衝撃音は何度立ち会っても凍り付く、事故はコワイ。

立会試験に合格し、運輸省の委託を受けて、メーカーが出荷検査をした上で
合格証を代行発行して出荷できる。
ま、今、その出荷試験の手抜きやらで世間を騒がせてるけどね。

世界各国へ輸出するときも原則、同じような手続き手順を踏む。
輸出台数が少ない国へは「持ち込み車検」みたいなのもある。
フランスでは昔、日本車排斥があった。わざと申請書類を後送りさせられたものだ。

アメリカ輸出はこういった申請の手間は全く無い!いや、現地任せだったのかなあ?
「自己認証制度」だけである。アメリカの法律に従ってメーカーが自分でテストする。
その結果を「自己認証レポート」として保管しておく。それで発売できる。
ところが、、、ある日、アメリカ政府がマーケットからクルマを買って、勝手にテストする。
その結果が不合格だと即、販売停止!バイバック(回収)、巨額の罰金だああ、、

日本も、かって規制緩和の一環として、この自己認証制度を導入しようか?
との打診が国交省からあった。だが、国産メーカー連は迷った。
結局、「やっぱり今のままでいいです」と回答。なんでかな?分かるでしょ。

ヨーロッパ輸出が始まった当時は、「各国認証」だらけ!
国ごとにヘンテコリンな法律があった。
フランスでは、ヘッドランプは黄色でなければダメだったし。

スエーデンでは「最高速でのスピードメーターエラー」とか「排ガス室内侵入」テストがあった。
ガンガン、スピードを上げていくと、スピードメーターがだんだん甘くなってくる。
高速になれば遠心力でタイアが膨らむ。有効半径が大きくなる。
サスペンションが優れていても、タイアと地面が接触してる時間が減ってくる。
つまり高速では、なにがしかタイアは空転しているものなのだ!
直線比例するメーター構造ではアウトになる。
メーターをドライブするピニオンの歯数を変えて何とかしのいだ。
今でこそ、カーナビに「宇宙から見た正確な速度」が表示されるから、こんな苦労はないけどね。

「排ガス室内侵入テスト」というのもあった。
img077 (2)
スエーデンでは、ハンターが猟犬をトランクルームに乗せる。
呼吸させるためにトランクリッドを少し開いて網を張って固定する。
こんなことやったら犬が排ガス吸うだけでなく、室内の人間も排ガス中毒でもうろうとなる!

どうやって確認するかというと、、、、
走行中に、エキゾーストパイプの中にエンジンオイルを点滴する。
そうすると排ガスがもうもうと紫煙に変わる。
トランクリッドの隙間から煙が室内に入ってくる!苦しい、前が見えない、アブナイ!

だからエキゾーストパイプ出口を外側に90度曲げて、自分のクルマの
「スリップストリーム」の外へ吐き出す必要がある。
スリップストリーム、つまり自分のクルマが引きずってる渦流は、高速では
後方10数メートルに成長する。
これは紫煙を引きずれば伴走車から良く観察できる。
レーサーは、先行するクルマのスリップストリームの中に入れて、燃料節約する。
だからといって、高速道路でトラックの後ろにピッタリくっついて走ってはならない、死ぬよ!

東西ドイツ時代当時から西ドイツには輸出が始まっていた。
当時、日本車がベンツ、BMWに対抗して売れるのか?心配だったのだが。

だが、「日本車にはエアコンが付いてる」というセールスポイントがあった!
ドイツは北海道と同じ気候だから、夏のちょっとの間だけ我慢すればエアコンなど不要。
ポルシェなんかエアコンの設定すら無かった。自宅にも、レストランにも無い!
店の前のオープンカフェで楽しめばいいのだ。
だが温暖化で、さすがのドイツもエアコンなしはツラくなってきた。
そこに安いのにエアコン付き!の日本車が入ってきて大いに受けたというわけ。

ただし、アウトバーンで最高速いっぱいで走ると日本車はフワフワ前が浮き上がる!
ハンドルが軽くなる、直進を保つのが大変!
それもいずれ大半がFF化され、ワイドタイアが当たり前になって、直進安定性は解決した。
ベンツにはかなわないけどね。

西ドイツには「STVZO」という独自のクルマの保安基準がある。
「ステブソ」なんて呼んでいた。
EC/EECに統合化された以降でも並行してSTVZOは有効だった。
だから西ドイツだけの型式認証テストが必要だった。

これらは有名な「TUV」(テイユフ)という西ドイツの試験機関が日本に出張してきてテストした。
現地のTUVを見学する機会があったが、そこではクルマに限らず、実物グライダーの
胴体着陸時の強度テストとか、登山用ザイル、カラビナの強度、耐久テストとか、
なんでも請け負ってる試験機関だった。

そのうちどんどん日本のクルマメーカーが欧州に進出し、TUVも毎度出張では忙しい。
とうとう東京に支店まで作ってしまった!日本は良いお得意様。
それだけ日本のモデルチェンジ競争が激しかったのだ。

当時の日本の運輸省の試験官には自動車免許を持たない人!だっていた。
比べて、自動車先進国、TUVのテストは大違い。
あるクルマのタイアサイズが前後で違っていると「オーバーステア対策だな」と看破された。

日本の申請書に書く「最小回転半径」は、フロントタイアの中心の計算値だ。
多分、この法規が出来た時代の日本の道路にはガードレールなんて無かったのだろう。
ドイツのTUVは、フロントバンパー角にチョークを付けて「ウオール・ツー・ウオール」を測る。
これでいいのだ。
最小回転半径
ルーフラックの積載テストもあった。
ルーフに45kgの荷物を積んで、急旋回、急制動する!
ルーフラックが外れたらアウト!
ルーフラックテスト
あちらの夏、バカンスシーズンには、家族、家財道具をトランクからルーフまで満載して、
国家単位で南欧へ民族大移動するのだ。
さすがにひどい渋滞!だから学校の夏休みは州ごとに日程をズラしている。
会社は1ケ月単位で休暇が貰える。というか休暇を消化しないと会社が処罰される!

トレーラーのけん引登坂テストもやった。
トレーラー登坂発進
山の中の急傾斜の別荘地をお借りして、フル積載のトレーラーを引っ張って
急こう配での坂道を発進する。どのくらいの重さのトレーラーまでOKかを記録する。
夜中にやるけど、騒音で嫌われた。当たり前だけどね。

実は欧州、特にオランダでは、「トレーラー症候群」があるという!
屋台んかは全てトレーラーだ。これらが「マーケット広場」に集結して営業してる。
なんでもかんでも、いつどこへでもトレーラーを引っ張っていく。
通勤にもキャンピングトレーラー付けたまま会社の駐車場へ!そこで昼寝するのか?
アウトバーンの渋滞先頭にはノロノロのキャンピングトレーラーが居る。

そのうちSTVZOに「内部突起」「外部突起」なんてヘンテコな規定が出来た!
衝突したとき乗員、歩行者が怪我しにくいよう、クルマの内外のエッジに
丸みをつけなければならないのだ。
これもいずれはEC/EEC統一法規に取り入れられ、日本の保安基準にも加えられた。

書きかけです。





昔のホンダさんの技術

雑談ですが、、、、
令和への年号変更決定のウラ話を聞いてガッカリした。
年号って、けっこういいかげんに決めるんだ!

学者だの、有識者だのを集めて候補名を何十と出す。ここまでは民主的だよね。
それがだんだん絞られて10くらいの候補リストになってから安倍総理に示す。
総理は「オレは、こういうのがいいんだけどなあ」という腹案を持ってたけど、
10のリストには入ってなかった。残念。

仕方がないのでリストの中から多数決、、、、、かと思えばそうではない。
再び安倍総理が「リストの中だったらこれがいいんじゃないの?」なんて言い出した。
それが「令和」だったという。皆んながそれを忖度して「それで結構」となった?
なんか下心があるみたいで怪しい!
そのあと、「天照大神」にお伺いを立てるとか、、、、そういうプロセスは無いの?
それじゃちっとも有難味がないこのコンピューター社会、年号変えられるとスゴク迷惑なんだよね。

これから先、皇室の跡継ぎが先細り、女帝制度が云々されている。
ところが、、、歴史上、「側室が産んだ以外の天皇」はたった3人だって!!
じゃあ、ほとんどがお妾さんが産んだ天皇陛下だったのか?それが男系皇室なの?
そうしなきゃ、男系は保持できなかった!

敗戦直後、私がご幼少のみぎり、飢餓と貧困のさ中でも富裕層は存在した。
そういう連中はお妾さんを囲ってるのが当然だった。
お妾さんのことを、陰で「2号さん」と呼んだ。3号、4号と囲ってる旦那衆もいた。
でも皆なが使うようになって暗号じゃなくなった。
最近では「愛人28号」なんて言うけどね。

当時、近所の「古関オバサン」も、芸者上がりのお妾さんだった。
もうトシだったので昔の面影はなかったが。
旦那衆、つまり「パトロン」が釣りや道楽に凝って本家を勘当された。
それを機会に古関オバサンも手を切られたそうな。

そうなると古関オバサンがも自立しないと生きていけない。
パトロンから離縁のときに貰った自宅を貸しアパートにした。
ここに、美人の愛人「アッペさん」が住んだ。ヤヤコシイ。
アッペさんのパトロンは「第三国人」だ。中国華僑だね。
アッペさんの本名は「阿部さん」なのだ。パトロンはたまに泊まりにくるだけだから、
アッペさんはモダンなファッションに身を包んで、香水の匂いをまきちらして、
毎日、ノンビリ暮らしていた。

日本は、ついこの間までは当然のようにこういう「公認のお妾さん」がいた!
敗戦前までは男尊女卑、長男家長制度の完全封建社会だったのだ。
いやいや今だって一部では残ってる!

なのに、、、戦前の社会を復活しようとたくらんでるする変なヤツラがいる。
ソイツラは皇室制度の伝統にこだわって女帝出現にも反対してる。
そうだったら側室も復活させるというのか?

皇室の伝統と言えば、皇室の正装は軍服っぽいのとか、ちょっと奇抜な帽子とか、
テイアラとか、パレード馬車とか、、、要するにイギリス王朝のコピーだ。
これらだって明治になってから始めたんだよね?
だったら、伝統をどんどん変えたってナニが悪いのか?

昭和24年、私が小学2年の時の担任時のは若い「渡辺先生」だった。
先生は、いつも詰めエリ学生服姿だった。それしか着るものが無かった時代だからね。
学徒動員から生還したという。すごく厳しい!だから怒ると小学2年生に往復ビンタ!    
恐怖で固まって、だれも泣けなかった。

実は、私の孫は、小4のとき白紙回答テストを提出して先生から殴られた。
この事件のあと、不登校になった。大学病院で「学習障害」と診断された。
以来、もう4年も不登校だ。学習障害も知らない先生がいるのだ。許せん!

昭和29年、小学6年の卒業間際の授業で、担任の若い「絹子先生」が
突然、話し始めた。
「高天原タマガハラニに、、、、、天照大神アマテラスオオミカミが、、、、
スサノウノミコトが、、、、、、」と。   ナニソレ?
ホントにそんなことがあったの?それってお伽話なの?皆な、ポカンと聞いていた。
そんなの空想話、あったわけない!
若い絹子先生は「ホントにあったわけではありません」とは絶対に言わなかった。
その表情はホントに苦しそうだった。

それまで、「ホントに無かった話」など一度だって先生から教えられたことはなかった。
今思えば、校長いや文部省から「日本は独立したのだ。日本神話を教えろ!」
という命令があったのだろう。
その後、日教組」が強くなったから、もう日本神話を教えることは無くなったのかな?

おっと、本題と全然関係ない話をしてしまった。

昭和27年頃、、、、
小5だったオレ、自転車店をやってたおじさんに連れられて銀座の日劇前へ出かけた。
そこの人だかりの中心にはエンジンの付いた自転車があった。
メーカーの技術者が運転を実演していたのを鮮明に覚えている。
当時、ホンダさんは東京にあったから、多分、ホンダの「バタバタ」だったのでは?

NHKの「チコちゃんに叱られる」で、マイナス頭ねじとプラス頭ねじの話が出た。
ホンダの本田宗一郎氏が、昭和29年にイギリス・マン島レースの視察に行って、
見学した工場からプラスねじをコッソリ拾ってきたのが最初だという。
この話は「根性漫画」で流布された説らしいけど、、、、「諸説あります」だそうです。

実際にプラスねじが、ホンダのエンジンに採用されたのは昭和37年という。
8年間のブランクあり。短気な宗一郎氏にしてはちょっと長すぎるな。
プラスねじのJIS規格が制定されたのは昭和39年。
いずれにしても規格化される前にホンダで既に使ってたとは、、、、
本田宗一郎氏はエライ!
ネジ頭

プラスねじの原型は、、、、、
「マイナスねじの頭に更に十字に溝を削り込んだねじ」 これは戦前からあったらしい。
「マイナスドライバーで回すプラスねじ」だ。だが普及しなかった。

戦前の機械加工は、リベットなんか以外は、ほとんど切削加工だった。
切削加工は、鍛造加工の「ファイバー方向」を分断するので強度が下がる。
切り粉、切りクズが出る、加工時間が長い。

材木だって、木目を分断すればそこから裂けて折れる。これを「目切れ」という。
だから木造船の船大工は「根曲がり材」をバックヤードにたくさん集めていた。
曲がったところをそのまま利用して曲線フレーム」や「キール」にしたのだ。

戦後、欧米のものをコピーしたプラスねじは、切削ではなくて、
プラスドライバーそのものの金型を、ネジ頭に打ち込んで凹みを作る方法だ。
「冷間」圧延、転造加工」だね。これははむしろ強度が増える。
アメリカでは、既に「ブローチング加工」などの冷間圧延、転造加工がどんどん進んでいた。
ファイバー方向

ホンダが、欧米のコピーとはいえ、プラスねじの国産普及に先鞭をつけたのはエライ!
日産では、プラスとマイナスがズルズル混在した時代が長かった。
先輩に、その使い分けを聞いても「知らん」と言われたっけ。
キャブレターとか、電素部品とか、精密な部分には、長い年月、マイナスねじは使われてた。
マイナスのほうが締め付けトルクが大きくて、振動部分では緩まないと言われてたが
本当かな?時計とか、メガネとかには今だにマイナスねじがある。

一気に普及したのはプラス頭ねじの「セルフ・タッピングスクリュー」だ。
つまり「鉄板にも使える木ネジ」の出現だった。
それまでクルマに部品を付けるのには「ウエルドナット」つまりナットを
ボデイパネルの裏側に溶接してた。これに部品をネジやボルトで取り付けてた。

これがある日突然、どこもかしこも「セルフ・タッピングスクリュー」になった。
ウエルドナット不要となったのだ!!
タッピングスクリューの先端に切れ込みを付けておく。これがドリルの刃の役目をする。
パネルに小穴だけあけておいて、そこに強引に電動工具でプラスねじをネジ込む。
それだけで緩み止めのスプリングワッシャーも不要。鉄板用の「木ネジ」だ!
ものすごく組み立て効率が良い。
このテクニックはマイナスではドライバーが滑って出来なかったのだ。

さらにもう1つ、ホンダさんが偉いのは、、、
プラスチックだらけの「ホンダ・ジュノオ」の登場である。、、、、、昭和29年の話だよ!
ホンダジュノオ

私が中1だった。、隣の「加藤工務店」の跡継ぎ坊ちゃんがホンダ・ジュノオを買った!
デカイスクーターだ。見たこともない形、まるで宇宙から来た乗り物みたいだ。
そしてプラスチックが多用されていた。
ボデイ、カウリング、フェンダーはFRP(ポリエステル)風防はアクリルだという。

当時、FRPは軽くて強い、未来の材料として脚光を浴びてた。
FRPの成形型も、アクリルの真空成形の型も、「木型」で可能だから大型部品でも
大きな投資にはならなかったのだろう。それにしても思いきった決断だ。
レイモンド・ロウイもスチュードベーカーでFRPボデイを採用した。
日本でもフジキャビンがオールFRPモノコックボデイだった。
だが量産性が悪く、製造現場はキタナイ、キツイ仕事だった。
その後、製造方法が改善されたとはいえ、ボートなどの少量生産向きである。

ジュノオが売れなかったらホンダが潰れる。実際、デカすぎて、重すぎて、
パワー不足で売れなかった?会社は危なかったらしい。
当時、私のおじさんが得意になって乗り回していたメグロ・オートバイなんて全て
金属、鉄の塊だった。プラスチックなんて全く使われてなかった。
雲泥の差だ。このとき、時代が進歩したのだ。

昭和33年には、ご存知「スーパーカブ」が出現した。
これにもフェンダー、大きなカウリングがポリエチレンだという。
スーパーカブによって、コチンコチンの鉄板やFRPでなくとも、ヘナヘナなポリエチレンで
十分、実用になる部位、部品があることが証明された。
これを転機に他社のバイク、スクーターも一斉にプラスチックによる軽量化が進んだ。
スーパーカブをあんまりフルコピーしたソックリさんが現れた!
さすがにホンダさんも訴訟したね。

4輪のクルマにプラスチックが多用されるようになったのは、ずっと遅れた。
日産の初代フェアレデイはFRPボデイだったが、米国向けに量産に入るとすぐに
スチールボデイに変更した。クルマ屋は全くケミカルに弱い。
いろんなプラスチックの特性の違いすら分からない。

プラ・メーカーの言うことを鵜呑みにするしかない。
初めは「ABS樹脂」の射出成型が主体、形状保持性が良いとの売込みだった。
これがヒドイ安物。紫外線でボロボロになる。
外装のモールやフェンダーミラーに採用した部品は全滅!
プラモデルならABSでもいいんだけどね。

これに懲りて高価な「デルリン、ジュラコン」やら、ナイロンしか使わなくなった。
エンジンファンなんか、ナイロン製だった。「熱物に懲りてナマスを吹く」 
だからコスト・メリットが無い。

後年、クルマメーカーも、形状保持性は悪くてヘロヘロするけど、
ポリエチレン、ポリプロピレンなどが使える部位、部品があると分かって、
ようやく導入された。
その点でもスーパーカブのポリエチレン採用は先見の明があったわけだ。

でも、プラスチックに一度懲りた上司を説得するのが大変だったなあ。
技術者は、材料メーカーの売込みを鵜呑みにしてはならない。

上司の説得といえば、、、、本田宗一郎氏を説得するのは大変だったという。
反論すればボカボカ殴られた!
アイデアマン上司というのは、見える現象にはスゴイひらめきがある。
だが目に見えない物理現象に対しては認めようとしない。

宗一郎氏も空冷エンジンにものすごくこだわった。
しかも自然空冷!油冷?にもこだわったらしい。
馬力の小さい「ホンダN360]では自然空冷だが、大成功した。

だが空冷で、もっとでかいクルマ「H130型}を強引に作らせて大失敗した。
それが引退の原因だったらしい。
ホンダH1300

実は、「フォード・エドセル」にまつわるジンクスがある。
「左右に分かれたラジエーターグリルのクルマは悲劇に終わる!」
フェラーリも、左右に分割開口したF-1は結果が出せなかった。

じやあ、アルファロメオ・ジュリエッタはどーなんだ?  
BMWの「キドニー・グリル」はどーなんだ? ジンクスではなくて迷信だね。

ヒコーキみたいに、F-1みたいに、ひとたび飛び出せば止まらない乗り物ならともかく、
アイドリング、低速登坂のある普通のクルマの空冷エンジンハは
自然空冷ではムリだ!
風量のでかいブロワーで強制空冷しなければ馬力アップは不可能なのだ。
ポルシェだって、大馬力では水冷になった。

ついでながら、ブロワーには2種類ある。
ちなみにシロッコとは地中海に発生する嵐のことだね。
ブロワー設計

1.通称シロッコファン、、中の羽根断面が回転に対して前傾した半月形。
                低回転、低吐出圧だが大風量、ブルンブルンと低周波騒音

2.通称ターボファン、、、中の羽根断面が回転に対して後ろにたなびいた半月形。
                高回転、高吐出圧だが低風量、高周波騒音!
なるべくシリンダ回りの冷却フインの空気抵抗を下げてでも、シロッコファンを使いたい。
そうしないとウルサくて、やたら消費馬力の大きい空冷エンジンになってしまう。

ブロワーの設計って、意外と簡単なのだ。
回転する羽根車の直径が決まれば、その外周にデイフユーズ・アングルの増分を
割り付ければカタツムリ形状が出来る。
デイフユーズ・アングルとは、流体が最小損失で管路を拡大していける限界角度のこと。
空気だったら5度くらいが最大かな?

出口から風圧が逆流しないためには「チップ・クリアランス」が小さいほうがいい。
だがこの隙間が5mmを切ると「サイレン音」がひどくなる。
あと、この部分のエッジの丸みもせいぜい3mm直径くらいが最小かな。

吐出口の幅方向は大体、正方形がいい。
要は空気ダクトの断面が、どこでも吸い込み口と同一面積になるようにすれば
通路としての抵抗損失が少なくなる。

私は「ホンダXL250S」という、オフロードバイクに乗ってた。
前車輪が26インチとバカでかい!こんなでかいタイアのバイクは世界で唯一?
だからオフロードでは、深い穴に突っ込んでも、そのまま突破できる。
ところが、、、
山の中で不整地をモタモタ乗り越えてると、たちまち「熱ダレ」がくる。
パワーが無くなる!オーバーヒートするのだ。
トライアルレース的には使い物にならなかった。冷却フインがとても小さかった。
もしかしたらこれも空冷というより油冷だったのかも?

油冷、、、、オイルでエンジンを冷やすなんて無理だ。オイルは粘性が高い。
冷却水に比べて「対流」が弱い。熱伝導しか出来ない。熱伝達が悪い。
だか、外からは見えないけれど、オイルクーラーの内部には「波板」を入れて
ムリヤリ対流させているのだ。

アイデアマン上司には、そういう見えない物理現象の思考が無い。
しかも相手の言うことを聞かない。
そう、「デジタル流量制御」なんて上司は理解してくれなかったね。
ホント、私もアイデアマン上司にずいぶん困らされたものだ。

おわり。


少し大きい文字

大昔の日産の軽?のおはなし

「古き良き昭和」なんて幻想だね。
公衆浴場へ行けば、戦争で負傷して手足が欠けた大人が普通に体を洗ってた。
電車に乗れば、白衣の傷痍軍人達がアコーデオンの悲しいメロデイーと共に
やってきて募金を募ってた。

今みたいに太った人なんて全く見かけなかった。
歯磨きなんてしたことない子供でも、虫歯なんかなかった。
皆んな、いつも腹空かしてたもんね。
オレがキャンデー初めて食べたのは、小学2年の遠足のとき、
坊ちゃん同級生がくれた1ケだった。
遠足?文字通り、全部歩いて数キロ先の洗足池まで行ったのだ。

「田町」の工業高校の屋上から、東京タワーの4本のオレンジの脚が
日々、上空へ伸びていくのが見られた昭和35年代ころから、まともな生活になった。

最近読んだ本に「高齢ドライバーのアクセル踏み間違い防止のために、
アクセルとブレーキペダルを入れ替えたらどうだ?」という暴論が出てた。
この著者は免許取ったことないそうだが!

実は、工業高校には戦前のダットサン・セダンがあった。
ところがこのクルマは、まさしくブレーキペダルの内側にアクセルがあったのだ!
これを引っ張り出して無免許で構内を運転したけどコワカッた。
ブレーキ踏んだつもりが、加速する!!
その恐怖たるや体験したものしか理解できないだろう。
結局、誰かが横転させて、貴重な戦前型ダットサンはポンコツになったけど。
一度覚えたペダル操作は、反射神経にメモりーされてるから、絶対に直せないのだ。

今でこそバイクの後輪用ブレーキペダルは右足に統一されてる。
ところが、、、、、大昔はメーカーによって左右マチマチだったのだ!
そんなバカな!と思うだろうけど事実である。
意外なことに、これにはすぐに慣れてしまった。
人間って、一体どうなってるんだろう?

話を戻して、、、、

我々の「昭和の日産自動車」の時代は、貧困と公害にまみれて3K職場で働くだけ。
8時始業で4時終わり!週六日制、土曜も8時間働いた。
新聞のニュースは、競輪、競馬に狂った亭主を殺した妻とか、、、、、
工場も設計も、油にまみれた国防色(カーキ色)の作業衣と黒い戦闘帽(兵隊帽)
が作業衣だ。ダサイなんてもんじゃなかった。

そういう職工の楽しみは給料日の、夜の「生麦」のヤバいストリップ劇場!
あくる日、「昨日はサツの手入れで3人、つかまったゾ」なんてささやかれてた。
かと思えば、職場で借金に回ってたヤツが知らぬ間に退職、、そう、寸借詐欺だ!

でも昭和40年あたりまでは大企業、日産の職場にも、家族的とか、
そういう大らかさが残っていた。
それもいずれ高度成長に突入すると「過労ブラック企業」に突入。
多忙な先輩がほったらかした新人が、ノイローゼになって田舎に帰ったり。

今でこそ、日産のクルマ以外は入門禁止だけど、昔はそんなケチなことはなかった。
ホンダS800で通勤してたお坊ちゃまエリートもいた!

元華族の道楽息子は、シトロエン11CVとか、ビユックとか、とんでもない
クラッシックカーまで持ちこんできて、昼休みに外の道路で試乗させてくれた。
これはベトナムに残ってたシトロエン11CVのタクシー!!
img310.jpg

11CVって「トラクシオン・アバン」のことだ。
あのジャン・ギャバンのギャング映画に出てくるヤツだ。
フロアがやたら低い素晴らしいクルマだった。
欠点は、FFドライブシャフトのユニバーサルジョイントの耐久性が無かったことらしい。

ポンコツ・ビユイックに10人乗って、横浜プリンスホテルのビアガーデンに乗り込んだ!
ドアボーイがあきれてた。

ルノー4CV
ルノー4CVで飲みに行った帰途、第一京浜国道の真ん中でエンコ。
お巡りさんが一緒に押してくれた。酔っ払い運転だったのに!

ルノー4CVといえば、、、、
日野がノックダウン生産して、主としてタクシー向けに販売してた。
室内は現在の軽並みに狭い!なのに何でタクシーなのか?
しかも日野製ルノーは、前後のバンパーに水平パネルを追加して全長を増してあった!
「100km以上出るクルマは、全長何メーター以上」という法規があったらしい?
バカバカしい!

カミカゼ・タクシーとしてガンガンでこぼこ道を飛ばすものだから、どのルノーも
前輪のキャンバーが「ハの字」になってた!
ドリフトマシーンのネガテイブキャンバーだ。これでも車検が通った?不思議なことばかりだ。
インテリア・デザインはシンプルながら、ホワイトだかベージュだかで統一された
ハンドル、メーター盤。フランスの香り高き、美しいものだった。このセンスの良さ、、、、、
今のデザイナーにツメのアカでも煎じて飲ませたい!!

私も三菱コルト800、スバルのポンコツで通勤してたことは前、言ったよね?
さすがにいずれ、門の外に停めるようにお達しが出たけどね。

そんな時、悪友(親友)が「軽の試作車が来た!」という。
ナニ?日産が軽自動車を!早速出動だ。
人気のない建屋の中に2人で侵入、
シートで囲まれていた狭い区画にコッソリ潜り込むと、、
薄暗い中に、クリーム色のチビ車があった!
たしか2気筒、空冷リアエンジンだったと思う。
しっかりカバーされてえ、まくったけど後ろしか見れなかった。
とにかくボデイがヤワだった。
試作番号はA260Xだったかな?当時の軽は360cc、

A260Xには諸説あり。600cc水平対向2気筒だったとも?
もしそうであれば、例の通産省「国民車構想」対応だったのかも?

その後、A260Xは実験部隊で走行テストされたけど、
案の定、やたらボデイが壊れて開発中止になった。
何しろ当時のテストは悪路コースを昼夜、カミカゼ・タクシーモードで
ひたすら突っ走る。「カミカゼ・タクシー」知ってるかな?
この、ひ弱なクリーム色のボデイでは到底、ムリだったのだ。

当時の軽はどこも同じようなレベルだった。
とにかく壊れる、悪路を走るとボンネットフードが開く!床が錆びて穴が開く!
パワーが全くない、ウルサイ、雨は漏る、隙間風が入る、バッテリーがすぐ上がる
、、、面倒ばかりかかる。

そこに突然、ホンダの軽自動車:N360が現れた!
ホンダN360

高性能4サイクルのオートバイエンジンを前面にむき出しに載せたFFモデルである。
昔のミニ(モーリス・ミニマイナー、オースチン・ミニ)のソックリさんだ。
というか、「ミニと同じパッケージの軽を作れ」と本田宗一郎が命じたとか。

音はひどくうるさい。そりゃ空冷オートバイエンジンが前面にあるんだからね。
だが、そのパワーたるや異次元の世界!1000cc並みのスゴイ走りだ!
最高速は100km/hを楽に超えてしまった!

アッという間に、他社の軽はことごとく駆逐された。
4サイクルでこれだけのパワーのエンジンを出せるメーカーはいなかった。
なので他社は、2サイクルエンジンに切り替えて対抗するしかなかった。

後年、私がリストラされてお世話になった名古屋の日産系列メーカーでも
当時、軽を作っていたが、N360に対抗する高性能エンジンが作れず、
それが企業の命運をゆるがし、結果、日産系列に吸収されたのだ。

ところがその後、N360は、例の「ユーザーユニオン」欠陥訴訟に巻き込まれ、
長期の判沙汰になった!
「ユーザーユニオン」というのは、アメリカのクルマのリコール制度を制定させる
原動力となった当時の「ラルフ・ネーダー」集団欠陥訴訟を真似た日本版である。

実は、ユーザーユニオンの首謀者というのは、、、、、
日産の本社サービス部門に所属していて、販売店から上がってくるクルマの
市場不具合情報を把握する立場にいた人物だったのだ!

彼は、毎月、私がいた設計部門にもフラッと用もなくやってきた。
あとから思えば、目的を伏せて日産車の設計欠陥情報を収集してたのかも?
そしてある日突然、社内情報を持って退職し、「ユーザーユニオン」を立ち上げた。
ホンダは元日産社員の被害者となったのだ!事実は小説より奇なり。

N360は、ユーザーユニオン事件後、モデルチェンジされて「ホンダ・ライフ」になった。
水冷化されたホンダライフは、現代の軽と大差ない性能レベルに向上していた。
これにも他社の軽は太刀打ち出来なかった。

かきかけです。


プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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