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昔のクルマの技術レベル その3

今でこそ軽にもデイスクブレーキ、エアコン、パワステ、パワウインドが当たり前、
アンチスキッドまで付いてる!
昭和30年代のクルマにはヒーターすらオプション扱いだった。なんで?
ヒーター付けるとタクシー運転手が居眠り運転するからだと!

エアコンなんて言わない。ヒーターとクーラーと分けて呼んだ。
専門的には「除湿」が出来ないとエアコンとは呼ばない。
除湿とは、冷やして乾燥させた冷気を「リヒート」再加熱して常温に戻して吹き出させる。
クーラーはハイヤーにしか付いていなかった。

デイスクブレーキ、アンチスキッドは最初、ヒコーキに出現した。
クルマでは、ジャガーのスポーツカーが最初に採用したような記憶が?
デイスクブレーキの現物見たのはずっと後の話だ。

ジャガーといえばフランス映画、ヌーベルバーグ時代を思い出すなあ。
宇宙船みたいなシトロエンDSが発表されたのは高校生の時、カネが無かった。
なので「文化放送」の「田中マリ子、ユア・ヒットパレード」の無料試写会を抽選で当てて、
銀座の「ガスホール」で見た。もちろんモノクロ。

映画のタイトルは「危険な曲がり角」
乱交パーテイから絶望して、ジャガーの白いスポーツカーで逃げ出す恋人のパスカル・プテイ。
それをジャック・シャリエがシトロエンDSで追う。真夜中のカントリーロードでの追跡。
コーナーではシトロエンが追い付くが、直線では軽量なジャガーが引き離す。

あれって、シトロエンDSの方がコーナリングが得意という意味だったのかな?
それともジャガーはスポーツカーとしてイマイチとフランス人がバカにしていたのか?
でも最後はパスカル・プテイは直線でトラックと正面衝突!
危険な曲がり角ではないよ?

おっと脱線した。
当時、大型トラックだってパワステは無かった。だからアメ車のパワステ、パワウインドは
憧れだった。「据え切り」でズリズリ前輪が向きを変えていくのを感心して眺めていたもんだ。
そういう使い方するから、アメ車のリコール項目にはステアリング破損が多かった。

当時のヒーターの温度調節は「ヒーターコック」つまりお湯の栓を回してた。
ところがこれだと微調整が効かない。暑すぎるか、ぬる過ぎるかのどっちかだけ。
理由は「お湯の熱交換は流量の3乗根で増減する」つまりON-OFF曲線になるからだが。
アナログ非線形制御である。上司は「だったらコックの開度をカムで非線形にしろ!」と主張。
だがエンジン回転が変われば非線形のゼロポイントがズレるから全く意味ないのだが、
このことを上司は理解できなかった。困ったもんだ。

アメ車のヒーターはどうしてたかというと、、、あの時代なのにデジタル制御だった!
お湯のパイピングラインにガスパイプが巻き付いていて、
その膨張力でヒーターコックをON-OFFさせる。メカニカル・デジタルフィードバックだ!
お湯のON-OFFの断続回数を変えることで流量をメータリングしてる。
お湯の「量り売りだ」!これなら線形制御できる。アメリカは圧倒的に工業先進国だったのだ。

ところが、、、
モンテカルロ・ラリーで名を馳せた「フォード・コルテイナ」が入荷してきた。
フォードと言ってもアメ車ではない、「英国フォード」のこと。
イギリスにフォードの子会社があって、独自に欧州向きのクルマをデザインしていた。
同様に、フオード・タウナスと言うクルマは、ドイツ・フォードという子会社でデザインしてた。
今、思えば不思議な時代だった。

このヒーターがハンパでない。見事に温度調節が出来る。なんで?
分解してみたら判明、「エアミックス方式」だった。
冷たい外気と熱い暖房空気をミックスする扉が付いてる。ヒーターコックはいつも全開。
瞬間的に温度は変わるし、自由に温度調節できる。
極寒のモンテカルラリーには必需品のヒーターだったのだ。
コルテイナが最初に採用したのかどうかは分からないが、以来、世界中のエアコンは
「エアミックス方式」になった。

さて、世の中は原価低減、コストダウンの嵐が吹き荒れるようになった。
ゴーン君のコストカッターとは次元が違うけどね。

20%のコスト削減が目標になった。
そこで切れ者トップから命令が、、、「すべての部品の板厚を20%削減せよ!」
「そうすれば完成したクルマは20%も軽く、20%も安くなる」と。そんなわけないよね。
材料原価は重量に比例するが、トータル原価は重量には比例しないのだ。
でもやるしかない。

先輩は、先ずラジエーターの真鍮板フイン・チューブの厚みを薄くしてテスト、ダメだこりゃ。
それでなくとも紙のように薄い真鍮板は水圧変化による疲労で亀裂、水漏れ発生。

重量軽減は諦めて、真鍮板の代わりに鉄とステンレスのアッパータンクをテスト、
だがこれもダメ。鉄は簡単に錆びて穴が開いて水漏れした。
ステンレス板はどうか?真鍮板のプレスでは成型不能!10倍能力のプレス機械が必要だ。
またハンダ付けが非常に難しい。ラジエーターというのは全部、ハンダでくっついてるのだ。

シャシー設計課の先輩は、ガスタンクの板厚を20%薄くした。アレ、一見、なんともない。
これはいける。そのまま小型乗用車のニューモデルに正規採用したのが悲劇の元となった。

ガスタンクはセダン、クーペ、バンで形が全く違う。
それらがいよいよ先行生産、工場が徹夜悪路耐久テストを開始したら、、、
1週間後、たった3000キロ走行でどのモデルも亀裂発生、ガス漏れだああ!!
セダンとクーペのガスタンクは室内にあったから爆発寸前!
どーする?もう発売が迫ってるというのに、

板厚を厚くしたり、プレス型を変えてでも形状を設計変更。突貫工事での工場切り替え。
だが、それで本当に亀裂は発生しないのか?だれも分からん。
もう1度、悪路耐久テストして確認するヒマは無い。再テストしてダメだったどうする?
もうニューモデル発表に間に合わない。さあ困った。

そこで「リーコール特捜チーム」のオレの出番かい?チームたってオレ1人しかいないんだよ。
そりゃないよね。仕方なくオレは考えた。

そうだ、、、台上で加振テストしようと。
加振機を持ってるのは、なぜか全社探しても「電装実験室」だけだった。
「ガスタンクなんか載せられたら困る!」と現場に怒られた。
そこを拝み倒してなんとか台上加振テスト開始。

まずオリジナルのガスタンクをテスト。ストロボ照らして、周波数変えて見てると、、、、
アララ、見事な共振点があるではないか!ここに周波数を合わせればたちまち亀裂発生!
ガスタンクの台上加振
対策品のガスタンクは、、、共振点は「クルマのバネ上共振点」よりずっと上に移動してた。
24時間、3日間の加振に耐えた。これでニューモデル発売に間に合ったのだ。

それでも心配で、タンクの底に「受け皿」も付けた!漏れてもガソリンが室内には流れて来ない?
そんなわけないだろーが!でも次のモデル変更までタンクを外付けに設計変更は出来ないのだ。
先輩は、、、、間もなく飛ばされた。そして退職して故郷に帰った。

念の為、販売中の各モデルのガスタンクも片っ端から台上テストで確認した。
そしたら、、、なんと、どれもこれも亀裂発生。全滅だああ!!

あわてて市場での不具合件数を調べたら、、全車種、クレームがありました!
ガスタンクが室内に付いてる車種は他にはなかった。
タンクが外に付いてる車種は、亀裂が発生したらタンクごと新品に交換してオシマイ!
ユーザーの使いかたが荒かったせいだろう、ということになってたのだ。
「ガスタンクを室内に取り付けたヤツは誰だ!」と言いたいが、、、

いやいや、それが本質的な問題ではない。
それからは、トップ命令で全ての部品テスト部署、全ての部品メーカーに
台上加振試験機の導入が進められたというわけ。これこそが信頼性の進歩である。

技術の進歩といえば、、、、ガスタンクの底は今まではどれも平らな設計だった。
それをアーチ形に下へ膨らました形に順次、変更していった。
こうすれば剛性が上がり、共振点周波数もずっと高くなる。
アーチ形ガスタンクのボトム
この手法は、ガスタンクだけではなくて、ボデイフロアーにまで適用された。
フロアのドラミング対策


ガスタンクと言えば、もっとヤバイ話が、、、一応、時効だと思うが。

ニューモデルがアメリカに輸出決定した。船積して西海岸に到着。
そこから貨車に乗せられて東海岸へ鉄道輸送される。
鉄道便を待つ間、広大な駐車場に一時的にデポされる。その数4000台。
さあ、積み込もうとドアを開けたら、ガソリン臭い!!なんだこれは?

ガスタンクは室内に取り付けられていた。タンクからはブリーザーパイプが出ている。
エンジンがガソリンを消費した分、タンクは外気を吸い込む。
また暑くなるとガソリンは膨張するので車外へ抜かなければならない。
つまりガスタンクは呼吸してるのだ。

アメリカでは既に大気へガソリン蒸気を放出するのは禁止されていたから、
「ヤシガラ活性炭」の入った「チャコール・キャニスター」を通して蒸気を吸収させていた。
当時、まだ日本はタレ流しだったけど。

ガソリン臭の原因は、駐車中に室内にガソリン蒸気が漏れ出ていたのだ!なぜ?
現地からの連絡によると、ブリーザーパイプの途中に、分岐のためのプラスチックで出来た
「3ウエイ・コネクター」が付いてた。このコネクターから漏れてるらしい。
ガスタンクのブリーザーパイプ1

図面を見ると「ポリエチレン」のインジェクション一体成型品となってる。
原価はたったの3円!大手プラスチックメーカーに発注している。
だがポリエチレンは耐ガソリン性があり、特に問題はない。困った。
ヒットラー第2設計部長は直ちに横須賀の研究所に電話、
プラスチック材料の博士の出動を要請した。
早速、車で1時間の研究所にコネクターのサンプルを持参してテストをお願いした。

3日後、博士から電話あり。「コネクターに穴が開きました」!なんだって?
現物を見せてもらいに飛んでいくと、たしかにコネクターにポッカリ穴が!
そんなバカな、、、一体、どうやって穴が開いたのか?
その穴と同じ大きさのなんかの粒が抜け出ていた。
3ウエイコネクター

聞いたら「5%の中性洗剤を加えた水に漬けといただけです」と。
「イエ、これはガソリンに使うコネクターなんですけど?」
「ええ、ポリエチレンは数パーセントの中性洗剤に一番弱いんです」
でも、洗剤の容器ってポリエチレンだよね?

とにかく研究所の博士、購買部の担当と埼玉の大手プラスチックメーカーへ飛んだ。
だが、メーカーは単価が、たったの3円なので下請け、更に孫請けに丸投げしてた。
即、孫請けの工場へ移動、、、だが、

そこは工場とは名ばかり、ついこの間までは夫婦で切り盛りしてきた何かの商店だったらしい。
インジェクション・マシン(射出成型機)が1台、土間に据え付けてあった。
親会社から金型を借り受け、それを取り付けて、中年夫婦がたった2人で
コネクターを連続生産していた。別にどってことない、製造方法には問題が無い。

壁には木製の作り付けの棚があり、プラスチックの原材料「ペレット」の紙袋が沢山並んでいる。
ペレットとは、ネズミのフンみたいな黒い粒粒になったプラスチックそのものだ。
これが成型機内部で高温で溶かされて金型に射出される。

上の棚にはナイロンのペレット袋、下の棚にはポリエチレンのペレット袋。
博士がその中身を手の平へ掴み出す。明るいところでジッと見ていた。
「アレ、何かが混じってますよ」  でもどれも黒い粒粒でしかない。
その中にちょっとツヤツヤした粒が混じってた。

博士は上の棚の袋に手を突っ込む。「アレ、これと同じだ」
なんと、上のナイロンが下のポリエチレンの袋に混じっているではないか!
なんで?   
上の袋から柄杓(ヒシャク)ですくい出すときに、下の袋にこぼれ落ちていたのだ!
ポリエチレンに混じっていたのはナイロンだったのだ!!

博士のたまわく、、、、
「ナイロンとポリエチレンは溶融点が違います」
「溶けたポリエチレンの中に、溶けないナイロンの粒が入ったまま成形されたんです」と。
全員、真っ青、直ちに不良サンプルを掴んで会社へ駆け戻った。

あとは大混乱、、、、
4000台分の真鍮ロー付けの暫定対策品を至急作って西海岸に空輸したのはいうまでもない。
だが、現地でのコネクターの交換はスゴク手間がかかるはず。
内張りを外してブリーザーパイプを引き出す。
ガソリン臭くなった内張りを新品に交換する。ドアを開け放して臭いを蒸発させる。

この作業を4000台やったら、交換費用総額は、当時のカネで6000万円だと!!誰が払う?
私の住宅ローンは1000万円、給料は5万円だった。
とにかく、お客の手に渡る前でよかったなあ、としか言えない事件だった。

コネクターの図面を書いた先輩は即、飛ばされた。何で?
図面には形と材料しか書いてなかった。
メーカーは、1ケがたった3円の部品なんてやってられない。
そして下請け、孫請けにやらせたのだ。
もし図面に「重要保安部品」などのハンコが押してあれば、それなりに検査体制を厳しくしたり、
原価に管理費用を上積みしたかも?  いや、そうとも思えない。
安い、小さな部品が生命に関わるところを左右している。難しい問題だ。

あの中年夫婦はそれからどうなったのかなあ?可哀想に。

続く。















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昔のクルマの技術レベル その2

やたらラジエーターの話が続くのですが、もう少しの辛抱を。

昭和30年代は法律で、ドライバーに「始業点検」が義務付けられていた!ナニソレ?
毎朝、エンジン掛ける前に自分で「冷却水量」「オイルレベル」を確認しなければならない。
水漏れはないか?キャップを空けてのぞき込む毎日。オイル漏れはないか?
いまどき、そんなことする人いないでしょう?

エンジンオイルは結構早く減った。  それほどクルマの信頼性が怪しかった。
ところが、、、ラジエーターの水を目いっぱい注入しても、明くる日にはまた減ってる。
イタチごっこ、当たり前だ。運転して膨張した分、必ずオーバーフローするもんね。
それを見越してラジエーターアッパータンクは大きめに出来てた。
でもヤッパリ心配になるから、めいっぱい入れちゃう。

これには欧州車も結構困っていたらしい。
アウトバーンを全開ですっ飛ばしていて、オーバーヒートしたらタダでは済まない。
気が付くのが遅れたらエンジン焼き付きで転覆とか火事になりかねない。

そこでBMWなんかは、でかい「圧力型リザーブタンク」を別に付けていた。
ラジエーターのアッパータンクとリザーブタンクをつないである。
タンクには当然、加圧キャップが付いてるので「圧力型タンク」と呼ぶのだが。
当然、真鍮のタンクだから高価で重い。国産車はなかなか採用に踏み切れなかった。
加圧型リザーブタンク

ある日、購入したばかりのフィアット600(リアエンジン、水冷)のスケッチ調査を命じられた。
すると「あれ、何だ、このプラ・タンクは?」 そう、ラジエターキャップから出た
オーバーフローホースはそのまま、プラスチックタンクに突っ込まれてるのだ。
大気開放型リザーブタンク


これは、、、オーバーフローした水を回収するのか?
そう、その通り。エンジンが冷えると冷却系は負圧になるから、プラタンクに溢れた
冷却水は再びラジエーターに戻れるのだ。コロンブスの卵だ!
これなら「始業点検」はやらなくていい!なんでこんな簡単なこと、誰も気が付かなかったの?

早速、まだ生産中止してなかった大型トラックに、ウオッシャタンクを改造して取り付け、
ビニールのオバーフローチューブでは負圧で潰れるので、厚肉ゴムホースに交換。
実験したら、、、、見事に作動した!! 

上司はこの新システムの有用性を全く認識して無かった。なのでフリーパスで図面にサイン。
即、大型トラックに採用された。もう始業点検の必要なし!外から水面が一目で分かる。
毎日つぎたしが原因で、明くる日また注水という悪循環が解決!!
だがオレは内心、、、、、フィアットにパテント盗用で訴えられないか?とビクビクしてた。

現在、日本中、世界中のクルマに、この「大気開放型リザーブタンク」が採用されてる。
世界で最初がフィアット?ならばオレが日本で最初だ!フィアットから訴訟は来なかった。
ということはフィアットが最初ではなかったのかも?めでたし、めでたし。

何で私が大型トラックの設計を担当してたかって?実は左遷されてたのだ!
入社当初、設計部は1つだった。だが段々組織が巨大化して2つに分かれた。
というのは表向きの理由。本当のところは、、トップの覇権争いの結果である!

勝ったNo.1トップは第一設計部長として乗用車を担当、
敗れたNo.2トップは第二設計部長として商用車と、チンケな小型車だけを担当。
優秀な将校連中(大卒)は第一に引っ張られ、優秀でない将校は第二へ。人材不足!
だから優秀な?兵卒(高卒)のオレは、負けた第二のトップにスカウトされたらしい?

敗れた部長は、ものすごく頭が切れた。だが書く字が汚い。慣れないと読めない。
天は二物を与えず。青白い顔、黒メガネ、眉間に青筋が立ったら危険信号!
神経質で恐れられていた。わずかなミスも言い訳も許さない。口答えすると即、飛ばされる。
だから皆な、ビクビク、自分に順番が回らないことを祈っていた。
だがなぜか、私は可愛がられた。まるでヒットラーに仕える秘書の如し!

後年、この部長は再度の抗争に勝利して帰り咲いた!
取締役から最後はとうとう技術系の副社長にまで登り詰めたのだ。
やっぱりスゴク優秀だったのだ。ずっと秘書でいればオレも出世したのだが。
それが出来なくなった理由があるのだが、、、アリャ、話が脱線しちゃったなあ。

ニューモデルはせいぜい4年に1回。ラジエターなんて一回設計すれば当分、仕事なし。
ヒマ持て余して、大型トラック用エアコンなんかを計画してたら、、、
ヒットラーから「不具合対策チームを担当せよ」との命令が下った。シャシー設計課へ配転!

今までは不具合はメーカーが自主的に対策してた。公開などしてなかった。
だがとうとうリコール制度が法制定された。重大不具合は公開、回収すべし!
きっかけは、確かキャブレーターからのガソリン漏れだったような?
生命の危険、ケガになる不具合、火災、なんでもあり。

当然、シャシー設計課の担当部品はそれに該当するものが多い。
鬼総括(課長代理をそう呼んだ)のもと、不具合対策チーム編成。
ところがスタートチームはオレ1人?他の連中は知らん顔。
つまり他の連中がやった設計不具合をオレが対策するというのか?

最初に持ち込まれたのは、、小型トラックの「田んぼ転落事故」!なんで田んぼ?
これが毎月のように発生してた。原因はブレーキパイプ破損、ノーブレーキ事故だ!

今でこそ前後車輪のブレーキオイルの配管系統は独立した「2系統式」になってる。
「タンデム・マスターシリンダー」の注油キャップがエンジンルームに2ケあるはず。
どこかでオイル漏れが発生しても、対角線上の前後2輪のブレーキは一応効く、
といっても効きは弱いけどね。
2系統式ブレーキ

私もそういう経験が2度ある。2度とも2系統式に助けられて命拾いした。
一度目は、、、、軽井沢での寒地テストの帰り道、峠の下り坂でなんかブレーキが甘い?
調べたら、前のブレーキオイルが空っぽだった!

だが当時はどのクルマも全くの1系統式。オイルが漏れたらノーブレーキ!
あとは弱いサイドブレーキしか残ってない。そのまま田んぼに転落!
田んぼに逃げたのかも?おかげで皆さん、軽傷で済んでたけどね。

原因は、、、小型トラックはフレーム付きだった。フレームについてる車輪からボデイへ
ブレーキパイプが上がってくる。そこが折れるのだ。
当たり前だ、フレームとボデイの間にはクッション材が挟まれてる。
だから路面の振動で微小ながら相対変位する。
当初の設計ではこの間のブレーキパイプがブラブラになるよう、余裕を与えてた。

ところが「ここが折れるのは床下から跳ねた砂利が当たるからだろう」とばかり
ビニールのプロテクターをかぶせた。そしたらに跳ねたドロ水がビニールに溜まって腐食!
あわてて今度は水はけの良いスプリングを石跳ねプロテクターとしてパイプに巻きつけた。
そしたら今度は、、、硬いスプリングがブレーキパイプを削ったのだ!

更にだれかさんが「ブラブラしてるから折れるんだ」とパイプをガッチリ固定してしまった。
さあ大変!フレームとボデイの微小な相対変位でブレーキパイプは疲労亀裂、オイル漏れ!

オレがやった対策といえば、、、
フレームとボデイの間でブレーキパイプをコイル状に旋回させた。
ここでパイプはバネ状にたわんでくれる。問題解決!
ボデイとフレーム相対変位

実はこの対策は自分で考えたわけではない。
当時のアメ車は乗用車でもフレーム付きが当たり前、路面からの音、振動が減るのだ。
アメ車のボンネットフードを開ければ、コイル状になってるのがすぐに見える。
もっとも、そのコイルの意味を理解してない設計者は見過ごすだろうが。
だれかさんは、、、もちろん、どっか遠くへ飛ばされた!

オイル漏れでアブナイ思いをしたもう1つの例を説明しよう。
ブレーキのホイールリンダーはアルミ合金が当たり前だが、ある時期、アメ車の一部の
クルマは鋳鉄だった!理由はコストダウンだと思う。

ある国産車もこれを真似て鋳鉄のシリンダーを採用した。
ブレーキ踏む度に摺動してるストローク範囲はいつもスベスベ、問題ない。
いっぽう、ストロークの外側はだんだんサビてくるのだ。
車検でブレーキ調整なんかをやるとそのストロークがズレてサビの範囲に入ってしまう。
そうするとゴムのピストンカップがサビを擦るからさあ大変、オイルが漏れ始めるというわけ。
鋳鉄製ブレーキシリンダー

じゃあ、なんでアメ車は鋳鉄でもOKだったのか?
アメ車はホイールシリンダーどころか、ブレーキペダルに直結するマスターシリンダーも
鋳鉄にしていたのに?

アメリカには車検制度が無い!ブレーキ調整なんか何年もやらない。
アメリカのマーケットは良く言えばメンテナンスフリー、だが悪く言えば整備点検なし。
ブレーキ調整なんて長いことやらないのか?
このことが後年、輸出車で大変な事件を起こすのだが、、、これはまだ時効ではないので。


オイルでもう一つ、話が、、、
さるメーカー(名前は言えない)の小型車は2サイクルエンジンだった時期がある。
軽で2サイクルは当たり前だったし、ドイツのNSUなんかは2サイクルで高性能だった。
大抵の2サイクル車は「マグネト点火」だった。

でもこのクルマは4サイクル用の「デイストリビューター・コイル」点火だった。そこが問題!
4サイクルのデイストリビューターを駆動するピニオンギアは、オイルパンのエンジンオイルが
ポンプで圧送されて常に強制潤滑されてる。

ところがこのクルマは2サイクルだからオイルパンが無い!
だから駆動ピニオンのケース内にオイルを常に補充しておかなければならないのだ。
マニュアルをよく読めばそう書いてある。だがユーザーはそんなものを読まない。
町の整備屋さんも、そんな特殊な構造とは知らない。
オイルは1度も補充されないまま、ピニオンギアは回される。
当然、ギアの歯は摩耗する、そしてデイスビスビは時々空転し始める!


2サイクルエンジンのデストリビューター


ある朝、エンジンを始動して前進ギアを入れたら突然バックするではないか
びっくりしてエンジンを見ると、、、、なんと逆転してるではないか!!
そう、2サイクルエンジンは、上死点の点火時期がズレると逆転するのだ。
デイスビが空転してズレたというわけ。こうなると修理不能。
エンジン側のドライブギアカムシャフトも交換するなんて大変なカネがかかるからね。
中古屋に行けばこの小型車がバカ値で売られていた。
ポンコツ屋にはこのクルマがピカピカのまま、山積みされていたというわけ。

おまけ知識

初代のメッサーシュミットにはバックギアが無かった。
だが2サイクルエンジンだったので、エンジンを止めて点火時期をズラす。
そしてスターターを逆転させればエンジンが逆転! バックが出来る。
欠点は、前進するときもう1度、逆の操作が必要だった。
二代目のメッサーにはバックギアが追加されたけどね。

続く。











昔のクルマの技術レベルのおはなし

カルロス・ゴーン君へのクーデター事件でお騒がせの日産。
昔々、私が日産へ入社したときには、雇用契約書なんて貰わなかった。
だからOBになっても守秘義務があるのかどうか分からん。
でも、もう上司も先輩も亡くなっちゃったから、時効の話をまたしてしまおうかな。

兵卒(高卒)として設計部に配属され、最初に将校(大卒先輩)から指示された仕事は、
「オルターネーター」のブラケットの補強対策だった。

当時のクルマはまだダイナモ(直流発電機)だった。
コイツはアイドリングではほとんど充電しない!
当時の日本では渋滞なんてほとんどなかった。それでもバテリー上がりは日常茶飯事。
ボロいクルマの冬の朝は、エンジンが始動するか?ビクビクものだった。

アメリカでは既に渋滞が問題になっており、「デルコ・レミー社」の交流発電機
(オルタオーネーター)が出現していた。現在では当たり前の装備だが。
これはアイドリングでもしっかり充電する。

電気メーカーからの売り込みで早速、オルターネータを採用。
エンジンに取り付けて台上試験を始めた。
ところがすぐに取り付けブラケットが壊れる。強度(安全率)は十分大きいのになんで?
調べると、エンジン回転を上げていくと高回転域でオルターネータが共振する点がある!
ストロボ当てて見てれば分かる。共振してれば亀裂が入るのは時間の問題。

対策は、、、、
平板折り曲げだった分厚いブラケットを止めて、
プレス成型の深いフランジを付けたものに変更。
これで軽量化、なおかつ剛性が格段に上がる。
共振周波数はエンジン最高回転数より上になりOKとなった。
こういう剛性設計、共振対策すら、まだ「やってみて分かった」という技術レベルだった。
今ならパソコンのシュミレーションで1発設計できるけどね。

ホンダさんが鈴鹿サーキットを造った。早速、日本で最初のグランプリレースが行われた。
国産各社がこぞって参加。式場壮吉のポルシェまで特別参加!
「フユーン」とンジンの音がまるで違う!勝てるわけない。
プリンス自動車その他はファクトリーチームを組んで出場。

だが日産は個人参加の初代フェアレデイを支援するだけだった。
サーキットで練習走行開始、、、、、
ところが2.3周するとオーバーヒート!いや、水温計は正常なのだ。
なぜかラジエーターから冷却水が吹き出して水が無くなる!なんで?

対策としてエンジン油温を下げれば効果があるかも?
急いでヤナセからイギリスMGーTAのレースキット「オイルークーラー」を購入。
ラジエーターの前に取り付けたらギリギリ効果があった。めでたく優勝した。

レース終えてから原因を追究したら、、、、「核沸騰」だと。 ナニソレ?
ノーマルエンジンをチューニングしてパワーを上げていくと、当然、シリンダが過熱する。
水冷エンジンでは、冷却水が熱をラジエーターに運ぶのだが、それが間に合わくなる。
結果、シリンダ外面で沸騰が始まってしまうのだ。
これが「核沸騰」だ。  局部沸騰ともいわれる。多少違うが「突沸現象」としても知られている。

沸騰すれば水の体積は膨張する。
冷たいままの冷却水はラジエーターキャップを押し上げて吹き出すというわけ。
だからいくらラジエーターを大きくしてもムダ。どうするか?
ウオーターポンプの吐出量を大きくすればいい。
水流が速くなって熱を一気にラジエーターの運んでくれるのだ。

調べたら英国車のウオーターポンプは小さい。
ポンプが付いてないクルマすらある!自然j対流循環だ。
日産はイギリスのオースチンなどから技術導入してたから、こういうことに気付かなかった。
当然だが、アメ車のポンプはデカかった。V8エンジンだもんね。
そんなことは先刻承知だったのだ。

そもそも戦時中の日本の軍用機は全部、空冷エンジンだった。
水冷エンジンも試作したが採用しなかった。だから水冷エンジンの技術がなかった?
いっぽう、イギリスの軍用機はほとんど水冷エンジンだった。
ポンプを大きくするノウハウは知っていたはずだ!
かっての敵国、ニッポンには「カス」の技術しか教えてくれなかったのかも?

実は、この「局部的オーバーヒート」類似事件は、何十年後に、大変な問題として
再発したのだが、、、これは時効かどうか?キワドイので詳しくは言えない。
日産の歴史は繰り返すのだ!

ラジエーターには別な課題があった。ラジエータ開口部の大きさである。
ボデイ設計も、スタイリングチームも、強度として、トレンドとして、グリルの開口面積を小さくしたい。
またやたら太いグリルをデザインする。だからラジエーターへの冷却風が妨げられる。
ラジエターグリルはデザイナーにとって必要悪なのか!!

とはいえ、ラジエータの適正サイズはどうやって決めれば皆が納得するのか?
ある日、エリート大卒が入社した。初仕事として、先輩将校からこの課題を与えられた。
彼は一日中、机に座ってタバコ吹かしているだけ、何にも仕事してなかった!
1ケ月が過ぎた。ようやく彼のレポートが課長に提出された。

数式だらけの論文!課長もなんだか理解できない。そこでアタマの良い将校が解説する。
「このレポートの結論は、、、X=MVのn 乗 です」  なんじゃそれ?
「ラジエーターの前面面積Xは、最高速Vのn乗に比例する」ということ。
つまり「最高速設計」だ!
まるでアユインシュタインの相対性理論の式ではないか?ビューテイフル!

ラジエーターの放熱性能計算はものすごく難しい!
レイノズル数やら、ブラントル数やら、ヌッセルト数やら、水と空気ので入口温度差とか、、、
無数のファクターの函数だ。難解な算式、それがこんなに単純な算式になるとは驚きである。
このエリート大卒は優秀なのだ!

たしかに冷却システム(材質だとか、冷却フインの形だとか、コアの厚さとか)を
評価するには難解な算式が必要だ。だが、これはラジエーターメーカの研究室の仕事だ。
それらが決まってしまえば、自動車メーカーとしては、ラジエータの前面の面積
を変えるくらいしか選択肢はない。
放熱コアの厚みを増やすという手もあるが、通気抵抗が増えるし、厚みが増えた分だけ
比例して放熱できないから苦し紛れでしかない。コアは薄いほど効率がいいのだ。

乱暴に言えば、放熱量=「風速の2乗根」と「水の流速の3乗根」くらいに比例するだけ。
ウオーターポンプが十分大きければ、あとは風速だけ、ということを
このシンプルな算式は示している。

風速って何? 
そりゃクルマが走れば風が入って来る。エンジンファンが回れば風が入って来る。
この両方の合成風速でラジエーターが冷える。

だが、ファンを大きくするといってもエンジンパワーを消費するから限度がある。
電動ファンが実用化されるのは後年の話。
もしあったとしても、バッテリ上がりで苦労していた時代だから全然風量が足りない。
残るは車速だけとなるというのが、この算式の意味である。
だからなんなの!

つまり、ニューモデルの最高速が決まれば、ラジエターの大きさが決まる。なぜか?
最高速ではファンの風速なんてゴミみたいなもんだ。まったく役には立たないからだ。
ただしラジエターへ入る風速は車速の半分くらいだということを承知してのことだが。

なお、最高速の遅いトラックは、最高速設計したらやたらデカいラジエーターになってしまう。
ファンをデカくして頑張るしかない。

じゃあリアエンジンはどうするの?
昔のルノーはリアにラジエーターとファンがあった。
初代ミニはフロント横置きエンジンだがファンとラジエーターも横向いてた!
走行風が入らない!
これらはパワーアップしたらいずれ冷却で行き詰まったはず。

リアエンジンの多くが空冷だったのは、後軸荷重を減らす目的だった。
そうしないと操縦安定性がアブナくなる。オーバーステアになるのだ。
空冷フインは風通しが良かった。更に冷却を確保するのに強力なブロワーを採用した。
ワーゲン、ポルシェ、シボレーコルベア、フィアット500、

でもポルシェだって、いずれ水冷、フロントエンジンになったりした。
パワーアップするのに冷却が行き詰まったのだな。
リアエンジン、ミッドシップエンジンのF-1レーサーやスポーツカーは、
長い配管でラジエータだけフロントノーズへ持ってきた。走行風は偉大なり!

ただし、冷却ファンにはエンジン自体からの放熱を冷やす目的もある。
フェラーリなんかは後部エンジンルームは金網でスカスカだ!
後年、これを忘れたワンボックスが設計されて事件となった。
これはまだ時効ではないので話せません。

なんで大戦中の日本、アメリカの軍用機は空冷ばかりだったのだろう?
軽量化?ウオーミンアップ?機銃で撃たれても水漏れしないから?
水冷エンジンをメンテンンスしてるヒマが無かったんだろうな。

オマケ知識
昔のファンは鉄板だった。これは凶器である!
シャシーダイナモで最高回転試験中にファンが折れると、
クルマのパネルを突き破って飛び出す!
その後、プラスチックファンが採用され、この恐怖は無くなった。

エンジンファンはプロペラファンのこと。高速回転で使うほど効率が良くなる。
大風量だが吐出圧力は小さい。だから「開放型」として使うヒコーキとか扇風機向きだ。
もともと空気抵抗の大きいものにぶつけて冷やすのには向いていない。
そういう場合はブロワーファンを使うべきなのだが。

特にプロペラファンの下流側に抵抗物を置いてはいけない。
だから常にラジエーターはプロペラファンの前に置くのです。

なのに、すごく厚くて抵抗の大きいヒーターコアにプロペラファンを採用したバカがいた。
結果、、、音ばかりデカくて暖風が出て来ないヒーターが出来上がった!

続く。









昔のクルマの信頼性

この写真は本文とは関係ありません。ドイツのシュテーリー村にあった博物館で撮影した、
メッサーシュミットのレコードブレーカーです。
メッサーシュミットのレコードブレーカー

話がヤヤコシくなったので先ず復習します。
「クルマは機械的破損耐久試験をしただけではダメ」というのが前回の昔話でした。
なお、これ以外にも耐久試験にはいろいろある。

「疲労試験」:繰り返しテストとも言う。同じ入力を繰り返し加えて疲労させる。
「寿命試験」:例えばライト(ランプ)を連続点灯させて何万時間とか。
「経時劣化試験」「経年試験」:高温、低温、紫外線、オゾン、塩水に曝して何十時間とか。
ただし用語、定義は、国の規格、各メーカー、各業界の規格ごとにマチマチで統一されていない。

これらも目標値、判定基準を決めて、それをクリアーするかどうかを判定する。
目標値を設けるものは全て「試験」と呼ばなければならない。


そう、「信頼性」が無ければ役立たないと言った。
実は信頼性には目標値、判定基準が無いのだ!
だから「試験」ではない。「実験」と呼ぶべきなのだ。
各種耐久試験も、目標値で中止せずに更に継続すれば立派な「信頼性実験」となる。

レーシングカー、戦時中の軍用機なら試験だけしかやらない。
だが、マスプロダクション製品たるクルマは信頼性を「実験」しなくてはならないのだ。
どーゆこと?

レーシングカー、戦争中の軍用機ならば性能優先とはいえ「機械的破損耐久試験」が最低条件。
疲労とか、寿命とか、経時劣化とかは関係ないうちにレース、戦争は終わってしまう。
何十時間という目標値を事前にクリアーしておけばいい。
もっとも、間に合わずにブッツケ本番でレース、空戦に臨むことも止むなし。
だから故障、トラブル、リタイアは茶飯事、
戦中の軍用機は耐久疲労試験はしなかったのかなあ?やってるヒマなんか無かった?

昭和30年代でも、1つのモデルで年間何十万台も売れてたクルマ。
そうなれば機械的破損耐久性の「バラツキ」だけで壊れるクルマも発生する。
これをニューモデルを買ったユーザーは「当たりだった」とか「ハズレ」だったとか言う。

これを予防するクラッシックな考え方は「何倍もの安全率を採れ」だった。
一品料理の大型産業機械、船舶などは耐久テストが出来ないから、こうするしかない。

だがマス・プロダクション製品のクルマには「安全率」は通用しない。
強度を大きくすれば、丈夫にすればクルマは壊れない、というわけではない。
どんどん重くなるだけ、その重量増加に耐えるためにますます重くなる、悪循環!

実は「バラツキ」で破損するなんてことは、一種の「都市伝説」に過ぎない!
たいていは、同じモデルならどれも同じところが壊れ、同じところが故障する。
ニューモデルが壊れる、故障する原因の多くは「信頼性」の欠如なのだ。

例えば応力集中。
いくらシャフトを太くしても「隅肉」のR(アール)が小さいとそこから折れる。
ウインドガラスにわずかな傷がつけば一瞬で割れる。
いっぽう、分子レベルの極限まで細くして欠陥(キズ)が無いガラス繊維、炭素繊維は
非常に丈夫なのだ。
だから「世の中の、すべての破損は応力集中が原因である」そうだ。

もう1つ、耐久性を上げるには「剛性」の確保も必要になる。
ヤワヤワしてたのでは振動、共振で、いずれ壊れる。
巨大な吊橋だって共振現象で壊れた。
レーシングカーならツッカイ棒パイプを追加すれば剛性問題は解決するが。
いや、レーシングカートはサスが無いからフレームがサスの役目をしている。
わざと剛性を落としている。そうしないと車輪が地面から離れてしまう。
「3点は1平面を形成する」分かるかなあ?

パネルを厚く重くすればボデイ剛性は有利にはなるが、それは出来ない。
フランジ、ビードの追加とか、ドーム形状とか、固定点の間隔短縮など、
とてもややこしいノウハウが沢山あるのだ。

一発強度試験というと、、
例えば戦闘機を裏返して、主翼に鉛袋をドンドン乗せてシワが出るまで見る。
これで「何Gまで持ちこたえる」と判定するのが「一発強度試験」「安全率試験」だ。
耐久性は空戦しながら直していく?信頼性など分からん?
だから機銃が詰まるなんて年中起きる!
空戦以外で落ちたヒコーキは数知れす?命がいくらあっても足りない。

とにかくクルマは戦闘機よりはマシだ。壊れても墜落しないから。
過酷な長距離耐久走行試験さえクリアー出来ればとりあえず発売となった!
というか、信頼性の確保まで手が回らなかったのだ。これが後日、大問題を起こす。
ニューモデルを出す度に大トラブルが起きるのはジンクスではない!
当たり前の時代だったのだ。

クルマも「一発強度試験」は一応やってた。
「縁石乗り越し」とか「溝落とし」とか、、、「アブノーマル試験」と称して乱暴運転はやった
バックで100mも走って急停止!なんてのもやった。
これも目標値で止めてしまうなら「試験」だ。
だが、壊れる、故障するまでやれば立派な信頼性の「実験」である。
もっとも「百人乗っても大丈夫!」なんて試験はやらない。

日産も大型トラックを作っていた時代があった。
実は、、、トラック専門の、あるメーカーは過積載耐久試験をやっていたのだ!
「あそこのクルマは壊れない」と定評だった。
当時のトラック・マーケットでは過積載なんて当たり前だった。今でもそうらしい?
だがマジメな日産は「違法なんだから保証する必要なし」だった。
目標値は法定の「定積載」だ。その結果、市場ではやたら壊れた!
結局、日産大型トラックはいずれ撤退することになった。

発売して3ケ月もすれば重大故障発生は当たり前!
設計者は「オレの部品が原因だったらどうしよう」とビクビクしてた。
全国のユーザーから非難ゴウゴウ!まずデイラーが土下座して謝る。
デイーラーは本社へ。工場が矢面に立つ。「製造不良だ、責任取れ!」
工場からは「図面通りに作ってる」「設計不良だ?設計者め、見に来い!」
設計者がユーザー宅まで調査にうかがうハメになる。

でも昭和の時代はおおらかだった。遠路はるばる九州まで夜行列車で行けば、
ユーザーさんが感激して「ご苦労様」なんてケーキ出して歓待してくれたこともあった。
そう、当時のお客様は富裕層ばかり、ニューモデルが出れば即、買い替えてくれた。
新車の自家用車を入れたことがステータス。
「最初のうちは壊れるもんだ」と許してくれた。

だがタクシーとか運送業は死活問題!デイラーが土下座したって許してくれない。
「いつまでに、どうやって直すんだ!部品交換しただけじゃまた壊れるだろーが!」
「クルマ返すゾ」、、、当然である。

さて、話は戻って、、、、信頼性だが。
何十万台のユーザーが遭遇する破損、故障を皆無にすることが信頼性の確保だ。
じゃあ、どうすればいいか?何十万台も試作車を作って試験すればいい。
そんなことムリだ!

そこで考えた。試作車ではなくて、部位、部品(コンポーネント)単体で「いろんな試験」を
台上試験機で延々と何個も、何千回、何万回、何十時間も繰り返すのだ。
加振だけではない。ねじる、戻す、操作の繰り返し、加熱、冷却の繰り返し、紫外線暴露、、、、
実験だから壊れるまでやる。この「いろんな実験」が非常に効果的だった。
大きくはボデイ単体、サスペンション単体、ドア単体、シート単体、、、、
小さくは部品単体、、、、、これは部品メーカーにもやってもらう。

現在でもいろんな製品、いろんな商品ではこの手法が主流として実施されてる。
例えばフタを何十万回も開閉するとか、スイッチを何十万回も操作するとか、
これも壊れるまでやる実験である。、
これが「メイド・イン・ジャパンは故障しない」という評価を高くした根本である!

但し、ここで間違えてはいけない。
「このスイッチは1日に何回しか使わない。だから1年で1万回、10年で10万回。
そうか、10万回を目標値にしよう」、、、これではダメ!
「11万回使ったユーザーがいれば壊れるかも知れない」ということでもないのだ!

20万回でも30万回でも続行せよ!実際に壊れるまで、故障するまで「実験」せよ!
壊れたら、その壊れ方、故障したらその故障のしかた、そしてその原因を追究する。
この目標値の無い「実験」こそが信頼性の保証なのだ。 なんで?

壊れるまでテストが済んでいれば、「あ、これはこういう壊れ方するんだ!」と
予めが把握できる。それを対策するか?しないか?は、対策コストをそこまでかけるか?
かけないか?で決めればいいだけなのだ。

「絶対にユーザーを第一発見者にしてはならない」というのがメーカーの仕事だ。
「壊れた!故障した!」と持ち込まれた部品を見た時、
「あ、これね。知ってるよ」といち早く手が打てるのだ。

ところで私がいまだに理解できないのがロケットの打ち上げだ。
「ロケットの信頼性設計」という講義を聞いたことがある。
「99.99999% の信頼度がある」というのだが、けっこうロケット打ち上げには失敗がある。
なんで? 
多分、何万回も打ち上げれば実現する信頼度%ではないのかなあ?
たまたまその打ち上げが0.000001%に当たったのか?
信頼度の定義がクルマとは違うらしい。ごめんなさい。

夜店で買った亀があくる日に死んだ。文句言いに行ったら、、、
「お客さん、ちょうど昨日が万年目だったんですよ。亀は万年ね」

さて、次の問題は、、、
「いろんな実験」つまり実験メニューをさがすのだ。これも信頼性である。
どういう実験をやればマーケットで発生するすべての故障、全てのトラブルを網羅できるか?
これが終わらなければニューモデルを発売出来ない。
だが昭和30年代では、これが出来ていなかった。

そう、現在でも毎日、信頼性との闘いが続いている。
だからリコールがまた出たではないか!信頼性は永遠の課題である。

続く。



昔のクルマの設計法?

DSC00056.jpg
房総トビ岩の山中の廃牧場で朽ち果てていた、世界で唯一?の全輪駆動の三輪車です!
群馬県ではまだ「山林車」として現役だそうです。

例え全輪駆動でなくとも三輪車というのは、オフロードでは4WDより優れモノなのを
ご存知ですか?  なんで?
幾何学の定理、、、、「3点は1平面を形成する」 だったかな?
サスペンションが無くとも、デフロックが無くても、常に3本のタイアが
地面に接していて駆動力を保つのです。

いっぽう、4WDのタイアは、サスが無かったら必ずタイア1本が浮いて空転する!
空転した軸は駆動力ゼロ!つまり2輪駆動になってしまうのだ。
だからオフロードではデフロックが無いと困る。
もっとも、デフロックが効いててもサスが無ければ3輪駆動以下だ!
最近はサスのストロークを増やし、スプリングを柔らかくして空転を減らしているのです。
DSC05069.jpg
この写真は本文と関係ありません。

だが三輪車にも欠点はあった。コーナーで簡単に転覆する!
アメリカに3輪バギーが輸出されたが、転覆事故で訴えられ撤退した。
日本人は、ピザ配送の「ジャイロ」という優れものでこれをクリアーした。アタマいいねえ。
DSC05063 (1)
DSC05071.jpg
この写真も本文とは関係ありません。

でもオフロードの轍(わだち)は左右2本しかない。
だから三輪車は、轍の真ん中を自分で開拓しなければならない。

いっとき、3輪車は絶滅危惧種になって博物館行きだった。
だが最近は、トライクとか、リバーストライクとかで復権を果たしている。
でも、サイドカーを含めて運転にはご注意を。
コーナーや急ハンドルで転覆しやすいことに変わりはない。

前置きはともかくとして、、、、前回の,日産自動車のクーデター騒ぎのいきがかりから、
今回は唐突ながらクルマの昔話をしようかなあ。もう時効だろうからしゃべっちゃお。
興味ない人はどうぞパスしてください。

昭和40年ごろ、日産の設計部に大卒で入社してきたヤツが2年で辞めていった。
その捨てセリフが部内で有名になった。
「この会社は古事記以前だ!」と。 ナンダそりゃ?   
古事記は「口伝えの書き取り」、つまり日産には「口伝えの技術しか無い」という意味だな。
ウーーン、頭いいヤツなんだなあ、惜しかったなあ、と感心したものだ。

彼は、自動車会社には「自動車設計法」なるものが存在していると思って入社した。
だが先輩は「そんなものは無い」「こうやって設計しろ」と口頭の指示ばかり。

まあ、私もかねがねそう思っていた。
毎日の仕事は先輩を見よう見まねでやってきた。
「これ読んで、この通りに計算しろ」なんて言われたことはなかったね。
そう、「設計基準書」は皆無だったのだ!
敗戦後のことだからクルマ後進国、日本に設計基準書がないのも当たり前か?
もっとも「これからオマエラが作るんだ!」とも言われたことは無かったがね。

昭和35年代の設計部は、大卒は入社したときから将校だ。
高卒、中卒は兵隊さん。旧軍隊みたいだった。
中卒といっても「工手学校3年卒」なので高卒と同格だが。私は工業高校卒だった。
大卒は計算ごとをやり、部品メーカーとの打ち合わせをして構想を練る。
高卒、中卒は、大卒の指示のもと、図面にする。製図工だな。

設計部は、、、造形、エンジン、ボデイ、シャシー、の四部門に分かれてた。
造形、すなわちスタイリングだけはちょっと別部門だ。なにしろ超機密だからね。
特別に許可を貰った人間しか出入りできない区画にあった。
昼休み以外、交流もめったにない。

エンジン設計部も独立したビルだった。
エンジン屋は東大理工学部卒が突出してた。エリート中のエリート。
「今度、入社したのはスゴイ成績で卒業したらしい」とか噂してた。
そういうのは将校連中からチヤホヤされるのですぐ分かる。

社内の「格」つまり人事の職級から言えば、、、、、
トップが設計部門、次が実験(テスト)部門、試作部門、そして工場部門だった。

これだけじゃクルマが設計できない。そのまた上に「車両企画室」があった。
そこは全員が部下のいない次長職で、車種ごとに担当が決まっていた。
少数の製図工がアシスタントとしてくっついていたが。

車両企画室からニューモデルの「車両レイアウト図」が出図される。クルマ全体の略図だ。
これも最高機密の図面だ。なにしろニューモデルの出発点だからね。
この図面に皆んなが飛びついて、分担部分をてんでんばらばらに部品図面にしていくのだ。

とはいっても唐突にニューモデルのレイアウト図が作られたわけではない。
車体寸法はどうするか?どのエンジンを搭載するか?サスペンションは何にするか?
ボデイのスタイリングは?という更なる上流がある。
この辺がトップの合議制で決められてたのか?各設計部の課長級も参加してたのか?
分からない。超機密事項だからね。

30年代前半までは、ボデイスタイリングは後から決めてた!
つまり、ハード(機械部分)をカバーするスキン(外皮)がボデイスタイリングだった。
そりゃそうだ。機械部分が収まらないとクルマにはならないからね。
だからやたら「箱っぽ」かった。昭和の懐かしいスタイリングだ。

ま、このやり方はすぐに行き詰まり、ボデイスタイリングを先ず選択し、
そのスタイリングが成立できるような機械部分を、新たに開発することが設計の使命となる。
その変化の変わり目が昭和30年代の後半だった。

エンジンとボデイを繋ぐ部品も数々ある。エンジンパワーを伝達する部分もある。
いずれこれらも独立して伝動設計とか駆動設計とか、制動設計に分離独立する。
さらにボデイが片手間にやってた補機設計(配線、配管)とか艤装設計(内装)とかも
だんだん独立、細分化された。

課はいずれ部に昇格し巨大化する。たちまち相互の連携不足が大きな課題となる。
だが長いこと各部の力関係の順位は変わらなかった。
ボデイ設計は最初にドンドン進む。
各部品の占有スペース、配置、配管の取り回しのスペース設計をする新参課は、
ボデイ設計の「ボス軍曹」にアタマを下げて仕事をしなければならなかった。
軍曹の機嫌が悪いと「もう遅い、ボデイは直せん!」とか拒否された。
前時代的だった。あんまりの独裁軍曹は、、、、忘年会で袋叩き寸前になった!
ケンカ両成敗、どっちも飛ばされたけどね。

今でこそCAD(コンピューター支援のデザインシステム)が当たり前になっているが、
ほんの30年前までは、スペース設計の全ては「空間作図」でしか決められなかった。
これは完璧な職人芸だ。入社数年の実地勉強をしないとその境地に到達できない。
各部署を駆け回って周囲の関係図面を集めて描かないとダメ。時間がかかる。
だから設計人数の2/3は製図工で占められていたのだ。

ボデイ設計部は大部屋!デカイ原図板に乗っかって1日中、あぐらかいて描いてた。
原図板、線図板には100ミリ格子の線が引かれてる。これを番線と呼んだ。
前車軸線がゼロY、後ろへ進むと数字が増える。
ホイールベースが2.5mなら後車軸位置が25Yとなるわけ。

クルマのセンターラインが0X、幅方向に数字が増えていく。
フレーム上面、または床面が0Zライン、上へ行くほど数字が増える。下はマイナス値。
欧州の自動車メーカーがこの方法でやってた。ヒコーキも同じだろうか?
もともと、造船所の設計図がこうなってたから、自動車もそれを踏襲したらしい。
地球の緯度、経度みたいなもんだ。これならどの位置かすぐ分かる。

ボデイの強度設計が一番難しい。
当初は「真空宇成形のプラモデル」を作って、手で曲げたり捩じったりして変形を観察していた。

真空成形とは、何十分の1かの縮尺でボデイ図面の木型を作り、
これに透明なプラスチック板をかぶせてスチームで加熱する。
プラ板が柔らかくなったところで木型の細穴からバキュームで吸う。木型に馴染んで同じ形になる。
これを外せばボデイパネルが完成。更にパネル同士を溶着でスポット溶接を再現。
精密な透明プラモデルである。スゴク手間がかかってる。試作課の職人仕事だ。

ボデイを最適強度、剛性にするためには「筋交い」だらけの「トラス設計」にすればいい。
当時のF-1レーサーは、全部トラスの「バードケージ」つまり鳥カゴ・パイプフレームだった。
当時は、モノコックボデイのF-1 なんて無かった。

実用車はそうはいかない。ボデイはパッケージ、つまり人間、機械の入れ物だからね。
ドアもあればウインドもある。フレームがあろうとも、ボデイはモノコックに進んでいくしかない。
飛行機は戦争中にものすごく進化した。帆布張り、フレーム複葉機からセミモノコック、
全金属製機へと脱皮し、クルマの経過をとっくの昔に終えていた。

そのうち「有限要素法」のスーパーエリートが大学院からスカウトされた!
手回し計算機!で解析が始まった。
ボデイを細かいマトリックスに分解して力の分散を計算するという。
なんだなんだ? 兵隊さんには理解不能!
現在のコンピューターシュミレーション解析の原点である。

設計とは、、、、最初の段階で構想を練る。「思い付き」「アイデア」だ。
カタチをいきなりポンチ絵(スケッチ)にするとか、とにかく形にしなければ図面に出来ない。
ライバル車、外車を参考にする。これにやたらに時間をかける。
出図期限が迫る。仕方ないのでどれかに決める。後は出図期限と競争の日々!
そういうプロセスだ。どうもこれも軍用機設計の伝統だった?

そういやオレの周囲の設計オジサン達は、皆、敗戦までは海軍横須賀工廠で
軍用機設計をやってたらしい?戦地には出てない感じがした。
過労で肺結核やって生き延びた人もいた。設計が間に合わないと戦争に負ける!
戦地でなくとも生きるか死ぬかだったのだ。

いっぽうテスト現場のオヤジは、「オレは予科練出だ!」とか、忘年会で「弾傷」とか、
名誉の負傷を自慢してた。戦場に送られて、生き延びて復員したのだろう。

軍用機は敵より優れてないと負ける。だからアイデア、思い付きで新機構をどんどん採用する。
信頼性、安全性など二の次、いわんや商品性、コスト、互換性、整備性なんて眼中に無い!
同じような手順でクルマのニューモデルを出すもんだから、発売直後から
大問題が噴出するのが当たり前だね。ユーザーも販売店もたまったものではない。
それも当たり前という時代だった。

輸入が解禁されると設計部は毎年、予算を付けて外車を参考車として次々と買う。
ワーゲン・ビートルは当然、
初代フィアット600、BMW600(イセッタの4人乗り)
初代ミニ(オースチン・ミニマイナー)、初代ロータス・ヨーロッパ
今ではレトロな、マニアックなクルマにも私は乗れたのだ!

イセッタクラブのドイツ会長
ドイツのシュテーリー村の博物館で同乗させてもらったイセッタです。
人物は「ドイツ・イセッタクラブのプレジデント」!
慌ててはいけない。大統領ではない。英語のプレジデントには「会長」の意味があるらしい。

これも同じ博物館にあったメッサーシュミットのプロトタイプです。
プロト2
メッサーシュミットのプロトタイプ1
プロト3


なんで参考車がワーゲン・ビートルなの?
実は、初代ブルーバードのプロトタイプ別案は「空冷、リアエンジン」だったのだ!

初代ロータス・エリート、メッサーシュミット・タイガーも売り込みに来たが
さすがに買わなかった。
時代が経つと、ポルシェ、でかいベンツ、BMWセダン、フィアットクーペ、次代のロータス、
次代ムスタングも買った。

ライバルメーカーのニューモデルもいち早く買い込む。
これらを試乗し、各部をスケッチし、テストする。
それらのアイデアが次のニューモデルにコピー反映されるようになった。
中国が今やってるのと同じだ!

図面が期限通り出来上がって試作課、機械工場、外注メーカーに回る。
ボデイなら試作課が木型作って手叩きでパネルを成型する。それを溶接で継ぎはぎする。
イタリアのカスタムカーのコーチビルダーと同じ!職人芸だ。
プレス型作って一発プレス成型なんてやったらムダになってしまう。
これからテスト結果で、どんな設計変更が入るかわからないのだから。

でもいずれ試作車といえども何台も同時に作らないとテストが間に合わなくなる。
後日の話だが「コンクリート型」(安い!)とか「Zn型」(亜鉛だから溶かして再利用できる)とか、
プレス加工がいろいろ試みられるようになった。

エンジン、トランスミッション、デファレンシャルギア、ステアリング、ブレーキ、
これらはユニットパーツと呼ばれ、先行して開発されてる。
または既存のモデルで使われてるユニットだ。ニューモデルの度に開発してるわけではない。
何百時間もの連続耐久運転が台上試験や、現行モデルを改造した試験で済んでる。
これを選択、搭載するだけだ。

だからユニットとフレームや車体がくっつくところだけが試作される。
ラジエーターはどのくらい大きければオーバーヒートしないのか?
エキゾースト・マフラーはどのくらいの容量にすべきか?そういう試作も必要だ。。

多くの部品は購買部が外注メーカーを選定し、図面が渡された。
そうやって年が経つごとに部品メーカーが育って試作外注が増えていった。

さあ、部品が揃えば試作1号車、2号車と次々と完成する。
「くっ付かない!」「部品同士が当たる!」とかてんやわんや。
設計者が試作課の現場に呼び出されてなんとか応急対策する。

1号車はただちに耐久走行試験に回され、テストコースの悪路を昼夜交代ぶっ通しで走る。
たちまち方々が壊れる!それを補強改造して続行する。3ケ月、10万キロぐらいが第一目標。
ドライバーも壊れる!

誤解しないでもらいたいが、、、この耐久試験では「機械的破損」だけしか分からない!
路面からの入力、コーナリング入力、路面からの飛び石などでどこが壊れるか?がメインだ。

試作2号車以降は、性能試験に順繰りに引き当てられる。
加速、最高速、登坂性能といった動力性能、燃料消費、操縦性、安定性、乗り心地、
ブレーキ、音振動、耐熱性(オーバーヒート)耐寒性(始動性)空調(エアコン)性能、
実用性(商品性評価)などなど。
まだまだ風洞テスト(空力)や塩害腐食、衝突安全性の試験なんて
はるか10年先のことだった!

そう、お偉いさんの試乗会も夜中のテストコースで行われた。

テストコースには穴だらけの砂利道、石畳道、うねり路、ワイデイング路、サーキット路、
捻じれ路、歩いても登れないような急な坂道など、イジワルが用意されてる。
今で言うラリーレースみたいなもんだ。

テストドライバーも人の子、雨上がりで路面が荒れてるとついつい大穴を避けてしまう。
だから大抵、助手席側ボデイが先に壊れる!
テストドライバーには腰痛持ちが多かった。人間も耐久テストされてしまうのだ。

テストコースは見晴らしがいい。だからスクープ雑誌のカメラマンが高台から望遠レンズで狙う。
これを警備員が追いかける。試作車にはカモフラージュのパッドを入れて覆面を貼り付ける。
夜間だけ走るとか苦労があった.

時代が進むと、台上テスト(シャシーダイナモ)を使い始めたが。
社内から写真をリークする産業スパイもいる。困ったもんだ。

昭和30年当時はタクシー需要が相当を占めていた。
だから、まずは荒っぽく走っても壊れないことが最優先。
なにしろ東京にだって都電が走る石畳が残ってた。爆弾の穴だって残ってた!
一歩、田舎へ行けば舗装してない道がザラにあった。モノコックでは壊れると直せない。
乗用車といえども、なかなかフレームを廃止できなかった。

当時、なぜか一部の製造工場にも独立した試作部門があった!
並行してそっちも工場設備を利用して試作車を作り始める。
工場で作られた試作カスタム・スポーツカーまで出現。これが人気で発売された!
多分、開発部門の試作部だけでは手が回らなかったのだろう。

工場の検査部門も試作車で勝手に試験を始める。
ボデイに覆面!を貼り付けて、仮ナンバー付けて、徹夜で正丸峠あたりに繰り出す。
当時は正丸峠はトンネル無し、ひどい無舗装悪路で有名だった。
「黒の試走者」なんて本が出たりしたなあ。

夜になると先導車が先行して偵察、ノンストップで踏切を突破。
スクープ雑誌のカメラマンは踏切で待ち伏せしてるから止まるわけにはいかない。
ヘッドランプも消灯!後はメチャメチャに真っ暗なデコボコ峠道をすっ飛ばす。
クルマ以前に体がもたない!

これだけやればば万全、と思うでしょう。そうではない!
クルマは「機械的🄱破損耐久試験」だけではダメなのだ。
そう、当時のクルマ開発には「信頼性」の概念がスッポ抜けていたのだ。ナニソレ?

次に続く。










プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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