fc2ブログ

飢餓地獄で生死を分けたもの

この本の大半は軍事関係なので、それ以外の興味深い点だけ抜粋した。
DSC00231.jpg

「海軍設営隊の太平洋戦争」       佐用泰司著  光人社発行
    サブタイトル:「航空基地築城の展開と活躍」

日本軍には、海軍にも、陸軍にも「航空隊」があって「空軍」は無かった。
ということは陸軍にも航空基地設営隊があったのか?

それはともかく島嶼に滑走路を急造する、いわゆる海軍工兵隊の話である。
トップは技術将校だが下部組織は戦闘員ではない!ほぼ武器を持たない「軍属」である。
大工、船大工、溶接工、板金、機械加工、農民、元漁師、、、、雑多な構成だ。

陸軍の招集兵だって寄せ集めだが、それでも結果は大きく分かれた。
旧日本軍の「海軍工兵隊」は南洋の島嶼で生き延びた。
だが島を守った陸軍は大量の餓死者を出したのだ。

なぜか? 工兵隊は軍属だったから!
民間人による自由な発想、創意工夫の迅速な実践。
民主的な指導者のもと、栄養学と衛生知識を駆使した自給自足ができたのだ。

いっぽうの陸軍というと、、、彼らはビンタ、体罰による恐怖支配。
命令に背けば営倉、軍法会議。だから誰もが上官の命令を待つだけ。
その上官も本部へ補給を通信するだけ、返事が来なくても手をこまねいていた。
命令が来なければ何もしない、何も出来ない。そういう体質になり切っていた。
結果として自給自足生活へのスタートが遅れた。それが致命傷になった。

何度も言うけど、そもそも大本営はこれだけ伸び切っていた前線を、どうやって兵站(補給)
するつもりだったのか?
中国戦線みたいに現地調達(民家の略奪)をするほどジャングルには住人がいない。
太平洋戦争そのものが、ほぼ補給が不可能な戦争だったのだ。   

兵站(補給)をないがしろにした日本軍であるから当然、工兵も単なる下働き扱い。
さすがに戦中後半には、これではいかんと遅まきながら軍隊化はされたが。
それでも戦闘集団が進出する前に飛行場や建物や給排水、トーチカなどを
建設しなければならない。
最前線の危険な作業ばかり。その割には小人数集団だった。
工兵隊には徴用工、、朝鮮人、ニューギニアの現地人がいた。
皆な、重労働の土木作業に駆り出される。日本軍は人海戦術だ。
アメリカ軍のように機械化されていなかった。

だから指揮官は部下の健康を第一に考えなければならなかった。
人が倒れたら仕事が止まる。熱帯での土木作業労働自体が極めて問題なのだが。
栄養失調、マラリア、熱帯性熱病、赤痢、疫痢、トイレの処理方法、、、
工夫に工夫を重ねた。部下は守られた。

未開の南洋、ニューギニアのソロン基地が舞台。
だが陸軍マッカーサーも海軍ミニッツも、上陸することなくスルー。
ここの滑走路を占領しても日本へは遠すぎる。大型機の空襲には使えないからだ。
滑走路が使えないように空襲は続いたが、日本軍機はもう皆無になった。
戦略的には置き去り、ニューギニアは主戦場ではなくなった。

その後は補給が途絶えた飢餓地獄!日本軍の船は全く来ない。
ニューギニアの日本軍15万人は孤立無援となった。
その生死を分けたのが「自活できない戦闘集団」と「自活出来た工兵集団」の差だった。

熱帯のジャングルだからいつもパパイア、バナナ、ヤシが実り、鳥や野ブタが徘徊してる。
食べるものくらいあるだろう、現にわずかながらも原住民は生活できてるし、、、、
いや、狭い島嶼に、あまりに多数の将兵が残置されたので、何でもかんでも食いつくしたのだ!
苗すら食い尽くした!海に魚を取りたくても散発的な空襲にやられる。

工兵集団は、食いつくすことはしなかった。
わずかな種や蔓を入手して、なんとか栽培できないかと工夫した。
だが米も麦も、大豆も芽が出ない。コーリャン、トウモロコシは芽が出た。
いっぽう、かぼちゃや甘藷(サツマイモ)は蔓から根が出た。
仕方なく、低カロリーだが収穫が容易な甘藷が主食になった。
意外なことに常夏、南洋では秋野菜、、、大根、ナスは種を付けないのだ!
理由は寒い冬の休眠がないから。
カボチャ、唐辛子、トウモロコシは種が取れた。
最後には苦労して作った滑走路も、泣く泣く掘り返して広大な畑にした。

各自が持つ徴兵前の民間技術、ノウハウを活用して、あらゆる工夫を実行に移した。
トラックの車輪で回す製材機、石臼!旨くないコーリャン、トウモロコシを製粉して焼いた。
農具、工具、漁労のはえ縄、釣り針、カヌー作り、漁船作り、製塩、、
ワナによる狩猟、現地人から譲ってもらったニワトリやアヒルを飼って卵を得て増やした。
ここでも多少は民主的だった組織風土が良い方向に向いた。

一方の陸軍はというと、自分で考えて工夫する体質を失っていた。
ひたすら命令を待ち、補給を打電した。だが当然、本土からは何も来ない。
何も生産しようとしない。
ジャングルを伐採して畑を作ると、上空から敵に見つかるからと躊躇した。
結果、栄養失調で大半がヨロヨロになって、とうとうジャングルを伐採する体力すら失った。
15万人の陸軍は「ジャングルの俘虜」と化した。

炭水化物、タンパク質はなんとかなっていったが、ビタミン食品が入手できなかった。
飢餓の中で脚気や、新鮮野菜不足によるビタミン不足に直面したが、
工兵隊は、あらゆる野草、植物を試み、これらを栄養知識で切り抜けた。

あの悪名高き、明治の陸軍軍医総監の文豪「森鴎外」は、白米偏重の陸軍食による
「脚気」を最後までビタミンB!欠乏症とは認めようとせず、留学で習った「細菌説」に固執した。
その結果、日露戦争では何万の陸軍将兵を戦わずして脚気で死なせた!
海軍はいち早く、これに気が付いて脚気死亡者はほぼゼロだったというのに。

富士山頂上測候所を開いて、初めて越冬した野中至夫妻も結局は新鮮野菜不足で倒れた。
我々は食物繊維のために野菜を食べてるわけではない。
ビタミンは人間が生きていくためには非常に大切なのだ。

書きかけです。




スポンサーサイト



中国大陸打通作戦、知られざる日中戦争

またまたトンデモナイ本を見付けてしまった。

  「中国行軍 徒歩6500キロ」  掘 啓 著    川辺書林

DSC00215.jpg

著者は、昭和18年、赤紙(招集令状)で徴兵された21才の鉱石分析技術者。
すでに戦況が傾き始めていた日本軍が、起死回生策の一環として計画した「湘桂作戦」
通称「大陸打通作戦」の、一兵卒としての体験記だ。

最初に、、、なんでこんなムチャクチャな作戦がまかり通ったのか?
20㎏の重装備で、1日に昼夜兼行で20キロ、ときには40キロも徒歩で行軍する。
戦闘となれば、分解した迫撃砲部品50㎏を背負って走る。
1年かけて中国大陸を徒歩行軍、そして転向(往復)した。
10万人もの戦病死者を出した。
軍隊は人間を消耗品としか見ていない。

もっとも、ごく最近、アメリカ海兵隊特殊部隊の入隊行軍でも死者が出て、
過激な訓練が問題になったばかり。どこの国の軍隊も人間の限界を無視している。
自衛隊でも、かって館山の基地だったかな? 重装備させた18才の新人(新兵)に対して、
深い水路を突破する訓練をさせた。結果、何人かが溺死した痛ましい事故があった。

昭和18年といえば既に、南方からのシーレーン(海上輸送)は、アメリカの潜水艦の攻撃で
絶望的になっていた。そこで、南方資源を陸路ベトナム経由で中国大陸の真っただ中の
鉄道とその沿線道路で日本に運ぶという壮大な戦略。
沿線の中国軍拠点を次々と陥落させて、そこに守備隊を駐留させるという。

そんなこと自体が可能とは到底思えない。
広大な中国大陸は蒋介石軍と毛沢東軍の支配下にある。
拠点を一時的に占領したとしても、いずれ守備隊は孤立する。
長く伸び切った戦線をどうやって維持する気だったのか?

作戦前の南京での7ケ月の新兵訓練は、古参兵が「連帯責任懲罰」、つまり1人が
ミスすると、その班の全員に対して往復ビンタ、拳骨制裁をする日々。
「戦闘になったらあいつを後ろから撃ってやる!」との陰口まで。
だがいざ戦闘の時、人数が減っても困るし、誰も実行はしなかったが。

上部からの体罰禁止が出ても、古参兵は見えない背中へのバックル付き革バンドでの
ムチ打ちをやった。それも教官に露見すると最後は尻打ちへ。ほぼ暴力団だ。
装備の内部検査で不足があると大変なことに。員数合わせのために他の隊から盗んでくる。
盗まれた隊は大変だ!更に別な隊から盗んでくる。

昭和19年5月、南京の南東、揚子沿岸にある武昌(漢口)から50万人が行軍開始。
迫撃砲手としての行軍開始、直線距離4200kmの鉄道に沿って、幅120kmに展開、
資源補給線路の確保を目的に、沿線の中国軍と交戦、排除しながら、
延べ6500kmの徒歩行軍と侵攻の末、ベトナム国境へ到達。
1年後、出発地に戻ったあとに敗戦。

戦車100台、火砲1300門とは言え機械化部隊ではない。ほぼ人力部隊だ。
6万7000頭の軍馬、現地調達のロバの背中に迫撃砲を積載して徒歩で行軍、
えばった隊長だけは馬の上。
先頭は歩兵集団が交戦する。それを後方から迫撃砲で支援。
雨の中、泥の中、腰上までの大河渡渉、マラリア、赤痢、下痢、血尿、疥癬、回虫騒ぎ。

食料は現地調達、といっても、全て通過する村からの略奪で賄った。
中国人民は日本軍が来る前に食料を隠して山へ逃げた。日本軍はその食糧を捜索する。
隠してあった米。貴金属も奪取。家畜は解体して肉に。
日本軍の通過した跡には何も残らなかった。
弾薬の兵站(補給)だけは確保されていたので不足は無かった。
なので「インパール作戦」のような壮絶な餓死者は出なかったが。

行軍中は米空軍の爆撃、機銃掃射に晒される。
なので昼間は行動できず。夜間や悪天候を利用して行軍したから、なおさら辛い。
あまりの辛さから、新兵の手榴弾自殺が続発。

当然、捕虜の拷問、虐殺もやった。毒ガス弾も使ったが、作戦途中で天皇命令が出て
回収された。東京空襲でアメリカ軍もガス弾を使ったら大変だというのが理由だった。

米空軍の爆撃で一瞬のうちに中隊200人が壊滅。300人のうち生き残りが7名の中隊も。
初期の17日間で中隊の30%が脱落。
300キロ行軍したところで補充新兵の脱落者は半数に及んだ。
虎!にまで襲撃された。唯一の救いは満州のように寒くはなかったこと。
南進するほどに温暖になった。

出発地に帰着して、南京へ向かう途中で敗戦の報が。
蒋介石軍は、ジュネーブ条約を守って捕虜虐待はせず。
そこから南京までの復員ではもう食料の略奪は出来ず。
往路で略奪した銀貨で物々交換して食料を入手。
全行程を通じて日本軍は、まるで強盗、ドロボウ軍隊だ。


以前にも書いたが、私が生後3ケ月の時に満州に出征、敗戦でシベリアに抑留され、
4年後に現地で死亡した。
何で日本人が満州に進出したのか?長年の疑問でした。

簡単に言えば、、、
日露戦争で勝ったけど、ロシアは中国に侵攻して巻き上げた「満蒙」つまり満州を
日本に譲っただけだった。「貰ったんだから日本の物だ」と思っていたが、
もともと中国の土地だ。そこには中国人が住んでいてた。

そこに悪名高き「関東軍」を送り込んだ。
さらに「満蒙開拓団」を送り込み、中国人から安値で土地を収奪した。
期待に反して、資源といえば石炭ぐらい、石油は出なかった。辺境の地である。
農業しか利用価値がない。
「満鉄」といっても既存の中国の鉄道を接収しただけのこと。
満鉄の関連事業だけが日本人のビジネス、それも赤字路線。

当時の中国は軍閥だらけで統一されてなかったので、ゲリラ(匪賊)活動で対抗。
その中で関東軍がやりたい放題。「張作霖爆殺」とか、{盧溝橋事件」とか。
その収拾をすべきところを、逆に近衛内閣が、抗日感情を見誤り、拡大させた。
結果、力を付けていた蒋介石軍と全面衝突。
蒋介石軍は毛沢東軍と共闘を組んだので、いずれ強大になった。

一方の日本海軍も「上海事変」を見誤って拡大させた。
こっちも欧米に後押しされた蒋介石軍に圧倒されて日本は大損失、敗退。
それを陸軍の関東軍が押し返すべく、南京まで侵攻。「南京大虐殺」で世界問題に。

その結末が「大陸打通作戦」、、
だが敗戦後の日本では「忘れられた大作戦」となった。

物凄い浪費だ。日本軍というのは日本の国家予算の5倍を消費した。
そして何も残らなかった。

書きかけです。


プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR