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ペリリュー島、沖縄戦記を読んだ

移住した小生の余生は病院と図書館通い。フト「手記」という分類棚が目についた。
そこで発見したのがタイトルにある地味な文庫本だった。
なお、小生はミリタリー・オタクではない。 そのことはあとで述べますが。
 
       「ペリリュー島、沖縄戦記」   ユージン・B・スレッジ著

戦記というよりも、ニックネーム「スレッジハンマー」自身の戦場日記による体験記。
若くして海兵隊に憧れて志願、過酷な訓練の後に戦場に送り出された。
戦後は大学教授にまでなったインテリだ。一気に読んだ。

戦略的にたいして重要でなかった小さなペリリュー島。
日本軍の飛行場があったので、ここを使えなくしようとしたのか?
だが肝心の日本の軍用機はもう来れない戦況だった。

上陸前に絨毯爆撃、艦砲射撃をメッタヤタラにやった。
だが米軍はまだバンカーバスター(地下貫通弾)は持ってなかった。
なので洞窟、地下壕にはほとんど効果なし。日本軍の火器は温存されていた。
結局、山岳戦に持ち込まれた。
谷間は洞窟、それらをつなぐ地下壕。トーチカだらけ、
大砲は洞窟から発射されるが、発射のあとは厚い鉄扉が閉じられる。
海兵隊は、全滅した日本軍とほぼ同じ1万人規模の戦死者、傷病者を出す。
アメリカにとっては衝撃的な失敗だった。

恐ろしい、凄惨な内容だ!映画にも動画にも出せないような場面がリアルに連なってる。
米軍、日本軍双方の砲撃と銃撃の挟間にあってクギ付けになって動けず。
砲弾でバラバラになった日本兵、アメリカ兵の腐乱した死体、手足、内臓、、、
巨大なウジだらけの体がゴロゴロしてる。
隠れるためにドロンコの水溜まり(砲撃の穴}の中を掘ったら、そこからも日本兵の
ウジだらけの死体が出てきた。数日、ときには10日以上も死体と同居してた。

第一次世界大戦の悲惨な塹壕戦と同じような戦場が太平洋戦争でもあったのだ。
そして今、ウクライナでも同じ事が現実に起きている、、、、愚かな人間

海戦、航空戦なら何十分、何時間で勝敗が決する。戦争ゲームみたいなもんだ。
だが地上戦、白兵戦、肉弾戦は何か月の単位で昼夜を分かたない持久戦、
目の前で次々に倒れる戦友を見て、募る日本軍兵士への激しい憎しみ、恐怖。
しかも日本軍の得意戦法「夜襲」への警戒で、眠られないら夜が続く。エンドレス、、、
その結果、「戦争神経症」つまり発狂して戦列を去るものも少なくない。

陸軍マッカーサーのレイテ島上陸作戦に対抗意識を燃やした海軍トップが
ペペリュー島の日本軍の地下壕要塞を甘く見たための失敗。
「3日で終わる」と豪語したが実際は2ケ月半もかかった。
しかも失敗を認めようとしないで応援も断った。
インパール作戦で失敗した牟田口参謀と同じことをやったのだ。

なのにアメリカ海軍は、そのあとの硫黄島でも地下要塞にてこずった。
さらに米軍の一方的勝利の印象が強い沖縄戦でも、首里城の地下壕要塞攻撃で
米軍は日本軍の死傷者の20%に相当する損失を出した。

ベリリューと沖縄の2つの作戦を転戦した彼の二百数十人の海兵隊仲間のうち、
生き残った古参兵はわずかに20数人。
わずかな訓練だけで本国から送り出されてきた若い補充兵の多くは、
不慣れな行動のせいで、たちまち倒れていった。
スレッジハンマー自身も、訓練当時は筋骨隆々の海兵隊員だったのに、
終盤では痩せ衰えた。米軍の体力も限界に近かったのだ。
民主国家のアメリカでは留守家族、議会から危惧の声が高まった。

そもそも日本は、広大な島嶼防衛は維持すら不可能だったのでは?
そして、南洋でいくつも起きた「島嶼戦」はアメリカにとって必要だったのか?

硫黄島ですら、占領目的としたB-29の緊急着陸というケースはたいしてなかった。
後続距離の短い戦闘機による本土への攻撃に硫黄島が使われただけだ。

既に日本軍のシーレーン(海上補給)は寸断され、制空権も米軍にあった。
島嶼の日本軍を放置しておいても攻撃される心配はなかったのでは?
事実、陸軍のマッカーサーは、日本軍が占領している島嶼のいくつかを無視した
「カエル飛び作戦」をやってフイリッピンのレイテ島上陸作戦を果たした。

もしも、戦友を殺された彼ら海兵隊が、そのまま日本を占領した連合軍の主力となっていたら、、、、
満州でソ連がやったのと同じことが、米軍によって起きていてたかも知れない。
だが幸いなことに、戦闘で疲弊した殺気立った海兵隊は、もはやその余力を失い、本国に引上げた。
日本占領連合軍の主体は、戦闘経験のない補充兵や、欧州戦線からの軍隊だったのだ。

アメリカの在郷軍人会も既に高齢化した。
「原爆を落とさずに本土決戦になれば米軍に50万人とも予測される戦死者が出たはずだ」
という主張は、島嶼戦での膨大な失敗に裏付けられたものだったのだ。
原爆投下への正当性の主張は消えてはいない。
日本への憎悪はパールハーバーの奇襲だけではなかったのだ。
地上戦の日華事変でも同じことが起きた。中国の日本への憎しみは消えていないのだ。

ついでにもう1冊読んだ。
DSC00204.jpg

     「日本軍と日本兵、米軍報告書は語る」  一ノ瀬俊也著 講談社現代新書

多数の日本人捕虜を尋問した結果から、、、、
「日本兵は捕虜にならずに死を選ぶ」という通説は、東条英機の戦陣訓の
「生きて俘虜の辱めを受けるなかれ」を守ったからではなかった。

多くの日本兵は農民であり、村社会から送り出されて来た。
出征兵士の留守家庭は手不足で農業を継続できなくなる。
それは村全体として支援するという前提条件で出征した。
だから「自分が捕虜になったことが分かると、支援を打ち切られ、家族が生きていけない」
「自分が帰還しても村八分になる」という心配が強かったからだという。
一方で「見知らぬ土地へ帰還すれば、生きていける」とも考えていたと。

多くの兵士は「天皇のためにバンザイ突撃、玉砕をする」気などなかった。
軍隊内の命令、暴力制裁に縛られていただけだった。

都会出の兵士は、村社会の束縛もない。戦前にはアメリカ文化、洋画、洋楽のファンでもあった。
英語が分かる者も多い。なので「鬼畜米英」など信じてなかった。
高等教育を受けたインテリの多くは、戦争の早期段階で「アメリカに勝てるはずはない」
と思っていたと。

最前線で自分だけ降伏すること自体、非常に危険が伴った。
味方に後ろから撃たれるかも知れない。
それに中国で自分達がやった捕虜殺害の逆を恐れた。
多くの捕虜は戦場に取り残された傷病兵だった。

「アメリカ海兵隊員は捕虜を取らない」という通説はウソだった。
降伏してくる日本兵を信用して、逆にワナに掛かった例もあった。

アメリカ軍の参謀官僚としては出来る限り死傷者を減らさなければならない。
そこで出来る限り捕虜を保護し、待遇を改善し、情報を得るだけでなく、
日本語で投降を呼びかけさせるような協力者に仕立て上げた。

日本軍捕虜の多くは非常に協力的だった。
その背景は日本人の「借りたものは返す」「恩義に報いる」という信条だった。
命を救われたお返しとして積極的に協力したのだ!
捕虜をもとの陣地に送り返して、仲間を投降者として連れ帰るという試みまでやった。
意外なことに、この作戦はほぼ100%成功した!

参考までに、、、
私は、東京空襲の生き残りです。
昭和16年(1941年)生まれだから終戦の年には5歳弱。
だが不思議なことに戦争体験は鮮明に覚えている。

父親は、30才にして生まれた3ケ月の私を後に満州へ出征。
理由は軍需品の商社の支店長だったので「志願扱い」で行かされたのだ。

留守母子は、京急の「大森海岸」の近くの母の実家「海苔の網元」に居候した。
毎晩、電灯に黒い風呂敷を掛けた。「灯火管制」である。
空襲前日の晴天はるか上に、二筋の飛行機雲がきれいに見えた。B-29の偵察飛行だった。
その晩の空襲警報の「サイレン」  今でも甲子園野球で鳴るとドキッとする。止めてもらいたい。

「カビ臭い防空壕」に入った。あくる日、外に出たら、一面の焼野原、地面が熱かった。
羽田飛行場の向こうの海までズット見えた。
庭のほうぼうに六角形の焼夷弾(ナパーム)の抜け殻が積み上げられていた。
クズ屋に売ればカネになると。

焼失した実家をあとに真夏の炎天下、第一京浜国道(今のイチコク)を
京浜急行の「青物横丁」にあった、父親の勤務先を頼って母子3人で歩いた。
途中で歩けなくなった私だけ、後から来た「おじいさんの牛車」の後ろに乗せて貰った。
(母は馬の荷車だったというが)
だが居候させてもらった店舗も1週間後の空襲で焼けた。「疫病神だ!」と追い出された。

次に実家が住み移った「馬込」の東電のショールームだった店舗に移った。
家の中で消防団が焚火で暖を取ってたので、天井まで煤で真っ黒だった。
夜は「ホー、ホー」とフクロウの声が聞こえた。私はここで成人まで生活したが。

そこでも夜間に空襲警報が鳴って、「第二京浜」(今のニコク)に母子三人で逃げた。
「品鶴線」(今の新幹線)の土手の至るところが焼夷弾で燃えてるのを眺めてた。
国道を「三輪の消防車」が、力なくチンチンとン鳴らして通り過ぎた。
おぶわれた私の背中の「ドテラ」にも焼夷弾の油の雫が燃え移っているのを
2才上の姉が発見し、消し止めたので事なきを得た。

敗戦後、焼け跡の至る所にコスモスだけが元気に花を咲かせていた。
水道管の蛇口だけがポッツリ立っていて、水飲みには困らなかった。

飢餓が東京では大変だった。食べるものが何もない。
カタツムリを焚火に放り込んで食べた。コクがあって旨かった。
畑の中に野菜の「洗い場」があって、食用ガエル(ウシガエル)とアメリカザリガニが取れた。
ザリガニはフライパンで焼いたら、エビのように(知らなかったけど)旨かった。
だが母が「ジストマがいるからダメ」と禁止。
カエルも「かわいそう」と逃がされて食えなかった。

父親は敗戦後、シベリアの収容所で昭和24年まで生きていた。
ハガキが1枚来たが、そのときはもう現地で死んでいた。
母は戦争未亡人として、再婚するまで地域から差別された。

終わり








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ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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