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ボマー・マフィア 東京大空襲の真実

図書館で、また新刊本を発見。
「爆弾マフィア」とは物騒だが、イタリア・マフイアとは関係ない。
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「ボマー・マフイア・東京大空襲」  精密爆撃の理想はなぜ消えたか?」
        マルコム・グラドウエル著  光文社刊行

別項で既にたびたび書いたが、私は5歳のときに東京大空襲に会い、母子3人で生き抜いた。
林家三平の奥さん、海老名香葉子さんも東京大空襲で天涯孤独になったことで有名。
だからずっと真相を知りたかった。

広島で20万人、長崎で10万人、東京大空襲で10万人が1日で死んだ。
なのに東京には小さな「大空襲博物館」がポツンとあるだけ。(行ったことないけど)
すっかり忘れ去られている。一体、何なんだ!

東京大空襲は、米軍の冷酷無比の「カーチス・ルメイ」が実行した。
なのに戦後、日本政府(佐藤栄作首相)がヤツに旭日勲章を与えた!
佐藤栄作といえば安倍首相一族だ。この一族はどこまで人をバカにしているのか?
ここまではマチガイはないのだが、更に深いバックグラウンドがあったのだ。

要約すると、、、
米軍が最高機密として来た「ノルデン爆撃照準器」による高空からの精密爆撃は、
実は、、、、ほとんど役に立たなかった。
なので、東京大空襲では焼夷弾・つまりナパーム弾による低空侵入、無差別絨毯爆撃に
切り替えて大成功した。
だがこれはルメイが独断で考えてやったことではなくて、別なチームが考えたことだった。
「それがやれる冷酷無比なルメイ」を上部が抜擢したということらしい。

ノルデン爆撃照準器は、オランダの変わり者の天才・ノルデンが独力で開発、製品化した。
この照準器は、やたら複雑な初期のアナログ計算機とジャイロを内蔵した代物で、
高度、空気密度、風向、風速、気温、地球の自転!による爆弾軌跡の偏向を計算して
照準を合わせる。なので迎撃を受けない高空から落としても酒樽に命中する!
という甘い売り込みだった。

よく考えれば眉唾ものだ。気温、風向、風速は高度によって層状に変化する。
熱気球はそれらを利用して操縦してるのだから。

当時、どこの国でも「空軍」は無かった。
小さかったアメリカ陸軍航空隊の「爆撃マフィア」研究グループがノルデン照準器に着目し、
熱狂的に支持した。
「軍事産業のうち、特に基本部品を集中的に生産している工場だけを精密に叩けば、
武器の生産が停止する。そうすれば無差別爆撃をしなくていい」
「悲惨な地上戦を早く終わらせらる」という理論に傾注した。
今で言う「サプライ・チェーン」の分断だ。

この時期、イギリスはドイツに爆撃を繰り返していた。
だが損害のはなはだしい昼間爆撃を中止、夜間の無差別爆撃だけに切り替えていた。
「爆撃マフィア」の理論を真に受けた米軍は、これを実証すべく、イギリスに乗り込み、
反対を押し切って「昼間精密爆撃」を宣言した。
ここでアメリカ爆撃隊の先頭に立ったのが「爆撃マフイア」派のエリート、
ヘイウッド・ハンセル。ジュニアだった。
そしてそこには、、、同期の「叩きげカーチス・ルメイ」もいた。

実は、ノルデン照準器には弱点があった。
1.昼間、目標を真下に目視出来なければ使えない。雲があってもダメ。
2.目標地点到達までの最後の航程の7分間は直進しないと照準が合わせられない。

現地の天気が悪ければ成功しない。
その上、パイロットは迎撃を回避できない「死の7分間直進」を恐れて目標から逃げる。
なのでちっとも命中しなかった。
冷酷無比のルメイは「7分間の直進を避けたら軍法会議だ」と部下を叱咤。
その代わり、自らも爆撃先導機に乗った。勇猛だったのだ。

いっぽうハンセルは「軍需基本部品」としてドイツ・シュバインフルトの
ベアリング製造工場に着目。ベアリングが無くてはほとんどの武器はできない。
だがその工場群はドイツ真深部にあった。そこへ行くだけでも危険だ。

その途上のレーゲンスブルグにはメッサーシュミット戦闘機の工場もあった。
そこで、、、まずルメイの部隊が戦闘機工場を爆撃し、敵戦闘機を引き付けておく。
すぐあとをハンセルの本命部隊がスルーすることにした。陽動作戦だ。

だが悲劇が起きた。
当日の朝、イギリスは猛烈な霧に覆われた。
B17爆撃機で計器離陸の訓練を重ねていたルメイ部隊だけが離陸に成功、
だが10分後に離陸しなければならないハンセル部隊は計器離陸の訓練をやってなかった。
なので霧が晴れた1時間後に遅れて離陸。当然、作戦はやる前から失敗だった。

予測通り、ルメイ部隊は猛烈な敵戦闘機の迎撃によって甚大な損害を受けた。
なのに、、、スルーするはずのハンセン部隊は、敵戦闘機が燃料補給する時間を与えたので
再び上昇してきた戦闘機郡により更なる損害を受けた。陽動作戦はムダに終わった。
多くの部下を死なせたルメイにとって長年、それがトラウマになっていたのだ。

なんとかベアリング工場群に到達したハンセル部隊はノルデン照準器で精密爆撃を
決行したが、雲に遮られて大した成果はなく、帰路も敵の迎撃にあってさんざんだった。
米軍は大損害を受けて、ベアリング工場への爆撃は1回で中止された。

実は、懲りずに、もう1度やっていれば成果はあったのだ。
戦後、分かったことだがベアリング工場群の1/3は壊滅していたのだ。

話変わって、米軍はケミカル化学者に効果的な焼夷弾「ナパーム弾」の開発を指示。
砂漠に日本家屋とドイツ家屋の家並みを再現。
これをナパームで実際に爆撃して、木造密集家屋への無差別爆撃の劇的な効果を確認。
軍は方針を転換した。

いっぽう、マリアナ諸島、テニアン島を占領した米軍はB29用の滑走路をあっという間に完成。
「爆撃マフィア」のハンセルは、ここの司令官に欧州から転進、昇進した。
そしてまたもやノルデン照準器で軍需工場だけへの高空精密爆撃を開始。
B29は迎撃を受けない高度12000mからの爆撃が可能だったので怖いものなし!

ところが、、、、富士山に到達したB29が東に進路を向けると、ものすごい追い風になった。
今でいう偏西風、ジェット気流だ。当時、その存在はほとんど知られていなかった。
なのでノルデン照準器の準備が間に合わず、目標の「中島飛行機工場」の
上空を通過してしまった。
いっぽう西へ向かえば向い風になってB29ですら進めない。
「爆撃マフイア」の理想とする精密爆撃は一向に成果が出ない。

そんなある日、米軍上官がテニアン島を視察にやって来て、唐突にハンセルに更迭を命じた。
後任は、、、、かの「叩き上げルメイ」だった。

ルメイは、ノルデン照準器による精密爆撃など、どうでもよかった。
だがルメイといえども解決策は何も考えていなかった。

ジェット気流をいかに避けるか?
答えは一つ、ルメイは日本軍の迎撃を覚悟で2000m以下の低空侵入しかないと決心。
東京上空に四角の面積を定め、まずその各辺にナパーム弾を目印に落とす。
そして後続がその内側に絨毯爆撃をするだけ。ノルデン照準器は不要となった。
そして、、、、東京市民に逃げ場はない。

準備万端の当日。
爆弾満載のB29は向かい風でないと離陸できない。
なのに、作戦のその日、なぜか無風に、、、そしてクルクル風向きが変わった。
それは大嵐の前触れだった。当時の天気予報は不十分だったのだ。
もし離陸していたら出撃したB29は全機が帰還不能、全滅しただろう。
ルメイは強運だった。

大嵐の直撃が過ぎた6日後、作戦はただちに再開。
夜の東京上空は、なんと日本軍の迎撃なし!
高度2000mからの絨毯爆撃は完全に成功。
折からの季節風の大西風で広範囲が大火災となった。後続の爆撃機は床が熱くなった。
爆撃後の帰途、240km離れても東京の空が真っ赤に見えた。

あとは戦略上、どうでもいい日本の地方都市50ケ所以上を次々と無差別爆撃した。
全てがルメイが命令したことだ。
目的は、、、次なる本土決戦、上陸作戦のためだった。
だが、原爆投下で全ては終わった。

書きかけです。


















ヤブ医者と名医、続々編の更に続編

1.胃壁の「内視鏡的 アルゴン・プラズマ凝固法(APC)治療」

前にも言ったけど突然、永年にわたり貧血であったことが判明。
それに気が付かなかった私もアホだが、過去の何人もの医者もヤブだったのだ。
採血、血液検査なんて毎月、いや毎週1回やらされてたのに、、、

医者は消化器官からの出血を疑った。
胃カメラ飲まされたら、胃壁の下半分に星空のような赤点だらけ!
毛細血管が異常増殖して胃壁全体を覆っていたのだあああ、、

「毛細血管拡張症」は、毛細血管の膜が薄くて弱い。
食べたものを小腸へ送り出すときに壁が収縮するので簡単にほうぼう穴が開いて出血する。
自然には塞がらない。ただし「大出血サービス!」はないから緊急性はない。
ガンではないけど遺伝子異常かも?
まあ、2ケ月ごとに1回15万円(保険で1万5千円)の眼球注射!を受けてる理由も、
眼球内に毛細血管が増殖して来たのを抑えてるのだから、、、遺伝子が原因だろう。

でも、これっぱかりの出血が貧血の原因になるのか?
血液サラサラ薬を飲み始めたあとで急に貧血になったわけでもないし。
疑わしいなあ、、、

星空の赤点を胃カメラから伸ばした「アルゴン電極プラズマ」で焼き塞ぐ。
ナニソレ?  アルゴン・プラズマといえばアルミ溶接じゃないか!
そのカサブタの下に本来の胃壁が再生する。手術は普通の胃カメラと同じ、20分で終わる。
でも失敗して胃壁に穴が開いたら大変なことになるから医者は慎重だ。
合計3泊4日。
1回絶食して、ご希望なら静脈麻酔(全身麻酔ではなくて鎮静剤)でやってくれるから、
痛くもかゆくもない。だが目が覚めるとボーッとしてほぼ認知症状態。ココハドコ?
その後、さらに1日絶食して終わり。

ところが星空の赤点を1つずつ点溶接なんてメンドクサイことはやってられない。
なので全体をベターッと「メデイアム・レア」に焼いてしまった!
術後は当分、食事のあと胃が重痛く、吐き気がする日々が続くのでツライ。

昔は、、、、バリウム飲んでレントゲンで異常が出ないと胃カメラをやらせてくれなかった。
だから発見が遅れて胃を切除された人が沢山いる。
胃カメラなら初期ガンが一発で分かる。今の人はシアワセなのだ。

2.大腸カメラ検査

次に出血を疑われるのは大腸ガンだ。
予め便の「潜血検査」では陰性だったので受ける必要は無いと主張したのだが、
陰性といえども10%の見落としはある。
同居の長女が「一度はやっとくべき」と勝手に決めてしまった。
胃の手術入院に連続2日プラスして内視鏡検査になった。
だが、、、、連続してやったのが大失敗だった!

またまた2食の絶食の上、緩下剤で完全便通!
更に、、、、2リッターもの洗浄液プラス1リッターの水を飲まなければ始まらない。
合計3リッターって、でかい焼酎ボトル並みだ。
洗浄液って何?、、、、  「ポリエチレン・グリコール」ポリエチレン?プラスチックの原料液!
エチレングリコール?不凍液!そんなもの飲んで平気なのか。 

これを午前中の数時間かけて飲み干す。物凄くマズイ、吐き気がひどい。
水も1リッター飲むから水中毒になる。とてもツライ。
洗浄液は体に吸収されないから、飲んだ分だけ、直ちに「水便」がジャーッと出てくる!
紙パンツ履いてないと間に合わない。トイレを半日完全占領だああ、、

排泄液の異物がゼロになって、黄色い透明状にならないとカメラが見えない。
内視鏡スタッフ・グループからは「まだかまだか?」と催促が来る。
排泄液には前夜出された夕食の植物性のがシツコク残ってる。
だったら前夜も絶食させればいいのに、、、、あとの祭り。

朝7時に飲み始めて14時にようやく排泄液が透明に、、あわただしく内視鏡開始!
これも静脈麻酔したのでたった20分、何も分からぬうちオワリ。
結果は、、、、「全く異常なし」  
だから言ったじゃないか。もう2度とやらないぞ!苦しい努力はムダに終わった。
体力低下、疲労困憊だあ、、、

そうか、、、、洗浄液を飲まされたのは、胃の「焼き切り手術」の3日後だったのだ。
そんなときに「ポリエチレン。グリコール」なんて飲めるわけがない。
大腸検査を先にやってから胃の手術をやるべきだったのだ。
絶対に医者のミスだ!  患者の立場を考えてない。

大腸ガンの原因は諸説あり。飲酒、喫煙、脂モノ、肉食、食物繊維不足、
便秘、、、、、私の友人の奥さんは異常を自覚してから1ケ月後に50歳で亡くなられた。
旦那はそれを悲観して3年後に亡くなった。
便秘がひどい人はガンが進行してるかも知れないゾ。
日本人はアルコールの分解遺伝子が10%しかないそうだ。
酒は肝臓を傷めるだけではない、胃も傷める。

私は、、、人生で便秘したことなし。喫煙も飲酒も20代でダメになってる。
大腸ガンはポリープから10年くらいかけて成長する。なのであと死ぬまで心配なしだ。
安心というか、あの苦しい洗浄液の悪夢がクヤシイ。

オワリ








和船(その歴史)

(スキャナーが古くて、画像がはみ出てしまうので、クリックして見てください!)

厚ぼったい上下2巻の本を図書館で発見。  というか、昔、読んで途中で放棄した記憶が、、、

「和船」 Ⅰ巻、ⅱ巻   石井謙治著  法政大学出版局発行
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表紙のデザインは出版局共通であり、この本のテーマとは関係ない。

何で放棄したかというと、内容が海事、造船の関係者、船の歴史研究者向けなのだ。
私もかってはアマチュアヨットマンであり、ヨットの自作までやった船マニアの端くれであるが、
それでも専門的用語が飛び交う。
更には、、、、大正生まれの著者が駆使する「古語」「漢語}がツライ。
なにしろ話が古今和歌集、遣唐使船、壇ノ浦の戦い、信長の軍船、朝鮮出兵での海戦、
徳川300年、幕末、明治政府と、ものすごく長大だ。

だがこの本は和船のバイブルとして権威を持ったものであることは間違いない。
特に、文中で度々、同業の研究者をケナシているのがその証拠である。
更には、、、天下のNHKテレビが、リアルタイム・ドキュメンタリーで放映した
「北前船の復元と航海」までもボロクソに批判している。ある意味、痛快な文章である。
著者は、この業界では恐るるものなしの「ドン」なのかも?

弁才線絵馬

この本で言う「和船」とは、、、、
年賀状に描かれる宝船、葛飾北斎、安藤広重の浮世絵版画に描かれた「弁材船」である。
ナニソレ?  千石船、樽前船、北前船、北国船、、なら知ってるけど?
いや、これらは用途と航路、細部仕様が異なるだけで呼び名が違うが、全て「弁材船」なのだ。

第1巻は、「弁材船がいかに優秀だったか」の礼賛に終始している。
1.櫓や櫂(ロ、カイ)を使わずにほとんど帆走でこなした。
2.オープンボート(水密甲板が無い)なので荷役が簡単、軽い貨物は高く積み上げた。
積載

3.引上げ式の舵板を採用。荷役のため、避難のため、どこの浅い港でも砂浜でも入れた。
  平底なので引き潮になっても転倒しない。船底を掃除出来た。
  舵板の面積を巨大にしたので、「間切り」(ジグザグに風に向かう)回転が素早く出来た。
キックアップラダー

4.平底船、なおかつ横帆ではムリと言われた「詰め開き」(切り上がり、クローズホールド)
  つまり風上に向かって最大60度くらいまで帆走できた。
  理由は横帆にしては正方形なので「アスペクト比」が洋式帆船より大きかったから。
    (同洋式横帆の練習船「日本丸」はの横帆は長方形。70度が限度。
      現代ヨットは45度ぐらい。最新のレース艇は30度近くも風上に上れる)

  竜骨(キール)の目的は横流れ防止の役割がある。
  帆船は「デイープキール」つまり竜骨が深く水中にあったのでクローズ・ホールドが出来た。
  現代ヨットはセンターボード、ダガーボード、フインキール、バラストキール、ウイングと、
  次々に進化してきた。
  ヘイエルダールの「コンテイキ号」もイカダの間にボードを挿し込んでだ。
  弁材船はどうやったかと言うと、船首を鋭く、深く水中に入れた。
水線下船型

  といってもそれほどのことではない。
  水中の側面積が大きいことが横流れを防いでいたのだと思う。
 
  もう一つある。舵板の面積を巨大化させたのだ。これも水中の側面積を広く分担できた。
バランスド・ラダー  
  だがこれでは舵板の保持力が巨大になる。
  これを解決するのに「バランスド・ラダー」にまで進化した!本当か?
  舵軸に「根曲がり材」を使って舵板の前端ではなくて水圧中心にしたのだ、
  といっても僅かだなあ、、、

  バランスド・ラダーは船舶、ヨットに限らず、航空機にも採用されてる。
  ヨットでは「スペード・ラダー」すなわち「ウチワ」みたいに中央近くに軸があるものすらある。
  だが舵板の下端に軸受けが無いと全ての水圧、空気圧が舵軸にかかって折れる!

  舵というのは追い波、追い風に弱い。水圧、風圧が逆転するからだが。
  「崩れ波」に乗ってしまったヨットは水流に追い越されるので、舵が全く効かなくなる。
  あるいは逆方向に効くので「ブローチング」つまり、いきなり横向きに曲がって転覆する!
  これに対処するには逆舵、つまりカウンター・ステアーを切るのだが、、、
  F-1レーサー並みのハイテクニックだから初心者にはムリだ。

  かって、台風に襲われた飛行場で、駐機していたジャンボジェットのラダー
  (垂直尾翼、方向舵)が追い風方向の風圧で軒並み壊されたことがある。
  強風時には飛行機もカモメみたいに風上に向けて駐機しなければならないのだ。

  ちなみに弁才船やヨットの「テイラー」(舵棒)はやたら細い。そこらの木の枝だ。
  理由は簡単、人間の腕力で動かすだけだからそれに耐えればいいから。
  それと舵板が壊れるような過大な水圧がかかったら先ず、テイラーが折れたほうがいい。
  テイラーは他の棒で代用できるが、水中の舵板は応急修理すらできないからだ。

4.大阪~江戸をノンストップで最短60時間で帆走した。セールエリアをドンドン大きくした。
         (現代ヨットでもノンストップ3日間は厳しい)


だが、著者の弁材船の礼賛はヨット乗りから見ると非常にムリがある。
水密甲板を持たなかった点は致命的な欠点である。沿岸航海ですら危険だ。
帆走すれば必ず傾く。(ヒールする) そこに向かい波が来れば「水船」になって沈没する。
ヒール時
こうして見ると、平底というより「ラウンド・ボトム」に近い。
ラウンド・ボトムは簡単にヒール(船体傾斜)が始る。つまり「腰が弱い」フネだ。
むしろもっと平底の四角いボトムのほうが初期の傾斜は少ない。
今の輸送船は船体中央部はほぼ四角い断面にして、積載物の移動を防いでいる。

追い風になるまで「風待ち港」に待機した。
だが風待ちすると、再出港にまた手間がかかる、経費が増える。
船頭はムリを承知でイチカバチかで出航する。悪循環だ。
オープンボートに甲板上まで目いっぱい荷を積み上げたなんて自殺行為だ。
風圧を受ける。積み荷は波浪でビショビショになって重くなる、重心は上がる。
結局、「トップヘビー」で転覆する。

当時の中国の「ジャンク」は水密甲板の上に、もう1層のスノコ状の甲板があった。
潜水艦並みだ。そこには荷物は積まない。歩くだけだ。
それを日本人は知っていたのに、、、弁才船は「水密甲板を」作る気なしだったのだ。
人命軽視、荷役経済性最優先!これが致命的欠陥だ。
きわめて多くの海難、沈没、漂流事故が発生した。神頼みの航海だ。

でもドイツで見た「バイキングシップ」の復元船だってオープンボートだった。
コロンブスが大陸を発見するずっと前にバイキングが北米まで渡ったことが分かっている。
バイキング船は、乗員のほぼ全てがオールを漕げる構造だ。大きな横帆とキールがあった。
細身の快速舟だ。船底にはバラストとして石を固定した。
荒天になれば、波が入らないように風に向かって必死で漕ぎまくったのだろう。

現代でも、オープンボートでの外洋横断の記録はいくつかある。
だが、これらは「ダブルボトム」になってる。水密デッキが水面より上にある。
なおかつ「セルフベイラー」や「オープン・トランサム」で自動排水が出来る。
  
引上げ式の舵板の脆弱性も非常に危険だ。無謀としかいえない。
舵のシャフト軸受けは上端にしかない!しかも半円の窪みだけ!
上端を支点にして半円に回転して引き上げるので下端に軸受けは無い。
舵板本体は左右のロープで引き寄せてる!
これでは荒天の追い波を受けたら外れる、暴れて壊れることマチガイなし。
キックアップ・ラダー2

現代の小型ヨット(デインギー)にも「キックアップラダー」がある。
だが舵軸の軸受けは上下2ケ所にあり、下端を支点にはね上がるから強固である。
ヨットのキックアップラダー
  
さらには、、、リーウエイ(横流れ)対策の舵板面積の拡大は、
側面積が船首と船尾に集中するのでかえって旋回性を悪くする。保舵力も過大になる。
現代ヨットのバラストキールやフインは船体中心にあるので旋回性を妨げない。

かっての中世には日本中にローカルな船種、船型があった。
だが秀吉の朝鮮出兵に伴う大量造船を迎えて困り、それらの統一化が進んだ。
さらに江戸幕府の確立により、大規模城下町ブームとなり、建築材料としての木材、
食材、酒、綿花、、もろもろの流通機構が発展した。

だが船は相変わらず櫓、櫂(ロ、カイ)で推進するものばかり、帆走は補助だった。
多数の水主(カコ)つまり奴隷のような漕ぎ手を必要とした。これでは大型化すらままならない。
そこで、帆走主体で航海で来るように帆を巨大化したりして改良が進められた。
それが元禄の頃に完成形になった弁材船なのである。
でも船型自体はほとんど変わっていない。
勿論、出入港には櫓を必要としたが、あくまで航海中は帆走となった。

和船の技術的最盛期、最終期は徳川300年の鎖国時代だった。
そもそそも鎖国という呼び方は明治以降に現れた!なぜか?
明治政府は、江戸幕府の政治を全面否定したかった。
「寺社廃仏」とかヒドイことをやった。だから鎖国という言葉を使った。

鎖国と言えばオランダ以外は全く諸外国を受け付けないと思われてきた。
そんなことはない。キリスト教の弾圧、密貿易の取り締まりとかはあったが、
朝鮮半島はもとより、中国、台湾、フィリピン、ベトナム、その他、、、
東南アジア各国との交易は普通に行っていた。欧州各国ともオランダを通じてやってた。
いろんな欧州人も来日して、徳川幕府の上部と接触していた。
黒船来航も唐突ではなかった。幕府はあの大型帆船の知識はあった。

和船も明治政府から全面拒否された。だが昭和の初めまで普通に就航してた。
「幕府が構造を制限したために、和船は海外渡航できる性能、構造、耐久性を失った」
と喧伝されてきた。事実、私もそう習ってきた。
幕府のご禁令は、、、
1.外洋航行可能な巨大船は作ってはならない。
2.波浪の浸水を防ぐ「水密甲板」を設けてはならない。
3.強度、耐航性を高める「竜骨」(キール)を設けてはならない。
だが、こんな禁令は存在しなかったのだ。

木造巨大船のサイズの限界が来たのは経済的な理由だった。
天災、飢餓、大火のときは積荷が減って廃船したり、小さくなる。
だがその後の復興景気にははドンドン巨大化させて省力化をやった。
その繰り返し、まるで現代の運用業界みたいなもんだ。

日本の天候は、世界的にも稀なくらい変化が激しい。
有名な北前船、北国船などの日本海の航路は、実は冬の季節風が吹き荒れる
冬季12月から3月まで完全に禁止されていた。このことは一般には知られていない。
冬の季節風が日本アルプスの脊嶺で遮られる太平洋側といえども、
新幹線が毎冬、雪で止まる名古屋、米原あたりは同じように危険だった。
富士山からの吹きおろしも強かった。伊勢、志摩、御前崎あたりは海難の名所だ。
秋になると日本海を低気圧が通り、太平洋側は数日の間、西の強風が続く。
これは「大西」と呼んで恐れられた。台風だって、全く予期できない時代だった。

だが大消費地の江戸への物流は止められない。
江戸っ子は、1人当たり毎日1合の酒を飲んだ!灘の新酒が来なければ困る。
命を懸けても廻船問屋は儲かった。有名な紀伊国屋文左衛門の世界だ。
船頭は最短距離をノンストップ航海。当然、どこかで荒天に捕まる。

最後に和船を見たのはいつだったか?
戦時中、4歳のときに日本橋の水天宮近くに居候してた。
近くの橋へ行って下を見下したら、川底が見えるほど澄んでいた。
大きな和船が抜けていったのを今でも覚えている。
1本の長い櫓(ロ)を高齢の夫婦2人してゆったりと漕いでいた。
櫓船は必ず左右に揺れるはずなのに揺れてなかった。
多分、あまりに和船が大きかったからだろう。
そのあとすぐに東京大空襲!あの夫婦はどうなったのだろうか、、、

昭和30年代には東京湾の運河に水上生活者が何所帯もいた。
ダルマ船と呼ばれる動力無しの「ハシケ」の和船の中で生活し、荷役作業を請け負ってた。
昭和50年代でもダルマ船は係留されていた。

日本の巨大木造船が絶滅したのは、いつ頃だったのか?
私が最後に見たのは35年前、伊勢湾の「佐久島」の東側の廃港に朽ち果てた巨大木造漁船と、
東京の「悲劇の福竜丸保存博物館」だった。
でもあれは「和船」ではなくて「木造洋船」である。
こんな巨大な木造構造を、よくもまあ作れたものだ。
しかも脆弱なこの船に乗って遠洋漁業に出たのだ。先人はスゴイ!命知らずだったのだ。

和船と洋船の違いとは何か?、、、、、

和船は、、、、、
スゴク厚くて長い「一枚板」をハギ合わせて、更に幅広の「一枚板」にする。
これを「蒸し曲げ」したり表面を焼いたりして木を柔らかくし、すかさず曲げたり捩じったりする。
この状態で船を形作り、すかさずハギ合わせていく。
なので板の自然の曲がり具合の結果として「船型」が出来上がる。

ハギ合わせ面には「合わせ鋸」を切り込んで面を合わせる。
そして「木殺し」(ハンマーで木のコバ(木端)を潰す。水に浸ると木が膨張して水密になる。
はぎ合わせ

ハギ合わせに大活躍するのが軟鉄製の「舟釘」だ。これにはいろんな形が工夫されている。
だから葛飾北斎の浮世絵にも描かれてる和船にも、点々と舟釘を打った穴が黒く並んでいる。
これが和船の外観的特徴となっている。
出来上がった和船は非常に重い。隔壁はなし、左右幅を抑えるビームだけである。

沖縄のカヌー「サバニ」もハギ合わせ板で作られてる。
だが舟釘ではなくて「駒、コマ」を使う。サバニと同じような木造船は東南アジアにも多い。
丸木舟の時代は、船底は丸木を使って彫り、舷側をコマでハギ合わせて大型化された。
コマによるハギ合わせ

洋船はというと、、、、
先ず背骨としてのキール(竜骨)を中心に据える。この左右に多数の肋骨(肋材、フレーム)や
バルクヘッド(隔壁)を固定していく。
そして肋骨の間に比較的薄い、幅狭の長い板(プランク)を打ち付けて船型を形作る。
水密には、板の隙間にコーキング(ロープをほぐしたものなどにタールを浸み込ませる)を
突っ込む。この構造は「カーベル、カウベル」と呼ばれる。牛が首にかけるベルの形だから?
この構造は飛行機と同じで軽量に出来る。
プランキング

バイキングのフネは板の端を少し重ね合わせた「鎧」のような作りになっている。
これは「クリンカー張り」と呼ばれ、北欧のボートに共通した作りである。
「波返し、スプレー・ストリップ」の役目も兼ねている。

現代の木造ヨット、ボート、カヌーは、ハギ合わせのような「点接合」ではなくて、
全て「面接着」である。一体構造なのでピンポン玉のようにものすごく強い。

話を戻して、、、千葉の館山新市「海の博物館」へ行けば、本物の「和船」(弁材船)が見れる。
いつもハイテンションな「サカナクン」!で有名なスポットだ。
各種の舟釘と、その使われ方も展示されてる。
ただしコレクションは小型漁船、中型漁船ではあるが、今では貴重な現物そのものである。
木造船は露天には置けない。屋内保管にはカネがかかるので大変だ。


私が50年以上前、30代で背骨骨折、100日も入院した横須賀の金沢病院の話だけど、、、
隣のベッド仲間は能登半島は「七尾」の出身で50代の純朴、温厚な元漁師だった。
造船所で働いていたが、天井クレーン操作マンのミスにやられて、移動してきた鉄骨が
止まり切れずに大きく揺れて彼を直撃、骨盤骨折に!
看護にやってくる奥さんは同郷の美人だった!退院は私よりやや早かった。
だから何なの?いや、別に、、、、

彼は毎日、能登半島での過酷な漁師生活を話してくれた。
沖の漁場まで、小さな木造船でタイ釣りに行く。エンジンは無い!
3時間も櫓を漕ぎ続けて釣り場に到着。そして一本釣り。
帰りは、運が良ければ帆に追い風を受けて楽に帰航できた。
だが、、、運が悪いと強風にやられる。その時は帆柱を切り倒して運を天に任せて漂流。

毎年、海難で漁師は何人も死んだ。それが怖くて横須賀に働きに出てきた。
でも当時の都会の工場でも安全ではなかった。
「命と交換、日本鋼管!」などと揶揄されるほど、造船所の人身事故も多かったのだ。

書きかけです。

飢餓地獄で生死を分けたもの

この本の大半は軍事関係なので、それ以外の興味深い点だけ抜粋した。
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「海軍設営隊の太平洋戦争」       佐用泰司著  光人社発行
    サブタイトル:「航空基地築城の展開と活躍」

日本軍には、海軍にも、陸軍にも「航空隊」があって「空軍」は無かった。
ということは陸軍にも航空基地設営隊があったのか?

それはともかく島嶼に滑走路を急造する、いわゆる海軍工兵隊の話である。
トップは技術将校だが下部組織は戦闘員ではない!ほぼ武器を持たない「軍属」である。
大工、船大工、溶接工、板金、機械加工、農民、元漁師、、、、雑多な構成だ。

陸軍の招集兵だって寄せ集めだが、それでも結果は大きく分かれた。
旧日本軍の「海軍工兵隊」は南洋の島嶼で生き延びた。
だが島を守った陸軍は大量の餓死者を出したのだ。

なぜか? 工兵隊は軍属だったから!
民間人による自由な発想、創意工夫の迅速な実践。
民主的な指導者のもと、栄養学と衛生知識を駆使した自給自足ができたのだ。

いっぽうの陸軍というと、、、彼らはビンタ、体罰による恐怖支配。
命令に背けば営倉、軍法会議。だから誰もが上官の命令を待つだけ。
その上官も本部へ補給を通信するだけ、返事が来なくても手をこまねいていた。
命令が来なければ何もしない、何も出来ない。そういう体質になり切っていた。
結果として自給自足生活へのスタートが遅れた。それが致命傷になった。

何度も言うけど、そもそも大本営はこれだけ伸び切っていた前線を、どうやって兵站(補給)
するつもりだったのか?
中国戦線みたいに現地調達(民家の略奪)をするほどジャングルには住人がいない。
太平洋戦争そのものが、ほぼ補給が不可能な戦争だったのだ。   

兵站(補給)をないがしろにした日本軍であるから当然、工兵も単なる下働き扱い。
さすがに戦中後半には、これではいかんと遅まきながら軍隊化はされたが。
それでも戦闘集団が進出する前に飛行場や建物や給排水、トーチカなどを
建設しなければならない。
最前線の危険な作業ばかり。その割には小人数集団だった。
工兵隊には徴用工、、朝鮮人、ニューギニアの現地人がいた。
皆な、重労働の土木作業に駆り出される。日本軍は人海戦術だ。
アメリカ軍のように機械化されていなかった。

だから指揮官は部下の健康を第一に考えなければならなかった。
人が倒れたら仕事が止まる。熱帯での土木作業労働自体が極めて問題なのだが。
栄養失調、マラリア、熱帯性熱病、赤痢、疫痢、トイレの処理方法、、、
工夫に工夫を重ねた。部下は守られた。

未開の南洋、ニューギニアのソロン基地が舞台。
だが陸軍マッカーサーも海軍ミニッツも、上陸することなくスルー。
ここの滑走路を占領しても日本へは遠すぎる。大型機の空襲には使えないからだ。
滑走路が使えないように空襲は続いたが、日本軍機はもう皆無になった。
戦略的には置き去り、ニューギニアは主戦場ではなくなった。

その後は補給が途絶えた飢餓地獄!日本軍の船は全く来ない。
ニューギニアの日本軍15万人は孤立無援となった。
その生死を分けたのが「自活できない戦闘集団」と「自活出来た工兵集団」の差だった。

熱帯のジャングルだからいつもパパイア、バナナ、ヤシが実り、鳥や野ブタが徘徊してる。
食べるものくらいあるだろう、現にわずかながらも原住民は生活できてるし、、、、
いや、狭い島嶼に、あまりに多数の将兵が残置されたので、何でもかんでも食いつくしたのだ!
苗すら食い尽くした!海に魚を取りたくても散発的な空襲にやられる。

工兵集団は、食いつくすことはしなかった。
わずかな種や蔓を入手して、なんとか栽培できないかと工夫した。
だが米も麦も、大豆も芽が出ない。コーリャン、トウモロコシは芽が出た。
いっぽう、かぼちゃや甘藷(サツマイモ)は蔓から根が出た。
仕方なく、低カロリーだが収穫が容易な甘藷が主食になった。
意外なことに常夏、南洋では秋野菜、、、大根、ナスは種を付けないのだ!
理由は寒い冬の休眠がないから。
カボチャ、唐辛子、トウモロコシは種が取れた。
最後には苦労して作った滑走路も、泣く泣く掘り返して広大な畑にした。

各自が持つ徴兵前の民間技術、ノウハウを活用して、あらゆる工夫を実行に移した。
トラックの車輪で回す製材機、石臼!旨くないコーリャン、トウモロコシを製粉して焼いた。
農具、工具、漁労のはえ縄、釣り針、カヌー作り、漁船作り、製塩、、
ワナによる狩猟、現地人から譲ってもらったニワトリやアヒルを飼って卵を得て増やした。
ここでも多少は民主的だった組織風土が良い方向に向いた。

一方の陸軍はというと、自分で考えて工夫する体質を失っていた。
ひたすら命令を待ち、補給を打電した。だが当然、本土からは何も来ない。
何も生産しようとしない。
ジャングルを伐採して畑を作ると、上空から敵に見つかるからと躊躇した。
結果、栄養失調で大半がヨロヨロになって、とうとうジャングルを伐採する体力すら失った。
15万人の陸軍は「ジャングルの俘虜」と化した。

炭水化物、タンパク質はなんとかなっていったが、ビタミン食品が入手できなかった。
飢餓の中で脚気や、新鮮野菜不足によるビタミン不足に直面したが、
工兵隊は、あらゆる野草、植物を試み、これらを栄養知識で切り抜けた。

あの悪名高き、明治の陸軍軍医総監の文豪「森鴎外」は、白米偏重の陸軍食による
「脚気」を最後までビタミンB!欠乏症とは認めようとせず、留学で習った「細菌説」に固執した。
その結果、日露戦争では何万の陸軍将兵を戦わずして脚気で死なせた!
海軍はいち早く、これに気が付いて脚気死亡者はほぼゼロだったというのに。

富士山頂上測候所を開いて、初めて越冬した野中至夫妻も結局は新鮮野菜不足で倒れた。
我々は食物繊維のために野菜を食べてるわけではない。
ビタミンは人間が生きていくためには非常に大切なのだ。

書きかけです。




中国大陸打通作戦、知られざる日中戦争

またまたトンデモナイ本を見付けてしまった。

  「中国行軍 徒歩6500キロ」  掘 啓 著    川辺書林

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著者は、昭和18年、赤紙(招集令状)で徴兵された21才の鉱石分析技術者。
すでに戦況が傾き始めていた日本軍が、起死回生策の一環として計画した「湘桂作戦」
通称「大陸打通作戦」の、一兵卒としての体験記だ。

最初に、、、なんでこんなムチャクチャな作戦がまかり通ったのか?
20㎏の重装備で、1日に昼夜兼行で20キロ、ときには40キロも徒歩で行軍する。
戦闘となれば、分解した迫撃砲部品50㎏を背負って走る。
1年かけて中国大陸を徒歩行軍、そして転向(往復)した。
10万人もの戦病死者を出した。
軍隊は人間を消耗品としか見ていない。

もっとも、ごく最近、アメリカ海兵隊特殊部隊の入隊行軍でも死者が出て、
過激な訓練が問題になったばかり。どこの国の軍隊も人間の限界を無視している。
自衛隊でも、かって館山の基地だったかな? 重装備させた18才の新人(新兵)に対して、
深い水路を突破する訓練をさせた。結果、何人かが溺死した痛ましい事故があった。

昭和18年といえば既に、南方からのシーレーン(海上輸送)は、アメリカの潜水艦の攻撃で
絶望的になっていた。そこで、南方資源を陸路ベトナム経由で中国大陸の真っただ中の
鉄道とその沿線道路で日本に運ぶという壮大な戦略。
沿線の中国軍拠点を次々と陥落させて、そこに守備隊を駐留させるという。

そんなこと自体が可能とは到底思えない。
広大な中国大陸は蒋介石軍と毛沢東軍の支配下にある。
拠点を一時的に占領したとしても、いずれ守備隊は孤立する。
長く伸び切った戦線をどうやって維持する気だったのか?

作戦前の南京での7ケ月の新兵訓練は、古参兵が「連帯責任懲罰」、つまり1人が
ミスすると、その班の全員に対して往復ビンタ、拳骨制裁をする日々。
「戦闘になったらあいつを後ろから撃ってやる!」との陰口まで。
だがいざ戦闘の時、人数が減っても困るし、誰も実行はしなかったが。

上部からの体罰禁止が出ても、古参兵は見えない背中へのバックル付き革バンドでの
ムチ打ちをやった。それも教官に露見すると最後は尻打ちへ。ほぼ暴力団だ。
装備の内部検査で不足があると大変なことに。員数合わせのために他の隊から盗んでくる。
盗まれた隊は大変だ!更に別な隊から盗んでくる。

昭和19年5月、南京の南東、揚子沿岸にある武昌(漢口)から50万人が行軍開始。
迫撃砲手としての行軍開始、直線距離4200kmの鉄道に沿って、幅120kmに展開、
資源補給線路の確保を目的に、沿線の中国軍と交戦、排除しながら、
延べ6500kmの徒歩行軍と侵攻の末、ベトナム国境へ到達。
1年後、出発地に戻ったあとに敗戦。

戦車100台、火砲1300門とは言え機械化部隊ではない。ほぼ人力部隊だ。
6万7000頭の軍馬、現地調達のロバの背中に迫撃砲を積載して徒歩で行軍、
えばった隊長だけは馬の上。
先頭は歩兵集団が交戦する。それを後方から迫撃砲で支援。
雨の中、泥の中、腰上までの大河渡渉、マラリア、赤痢、下痢、血尿、疥癬、回虫騒ぎ。

食料は現地調達、といっても、全て通過する村からの略奪で賄った。
中国人民は日本軍が来る前に食料を隠して山へ逃げた。日本軍はその食糧を捜索する。
隠してあった米。貴金属も奪取。家畜は解体して肉に。
日本軍の通過した跡には何も残らなかった。
弾薬の兵站(補給)だけは確保されていたので不足は無かった。
なので「インパール作戦」のような壮絶な餓死者は出なかったが。

行軍中は米空軍の爆撃、機銃掃射に晒される。
なので昼間は行動できず。夜間や悪天候を利用して行軍したから、なおさら辛い。
あまりの辛さから、新兵の手榴弾自殺が続発。

当然、捕虜の拷問、虐殺もやった。毒ガス弾も使ったが、作戦途中で天皇命令が出て
回収された。東京空襲でアメリカ軍もガス弾を使ったら大変だというのが理由だった。

米空軍の爆撃で一瞬のうちに中隊200人が壊滅。300人のうち生き残りが7名の中隊も。
初期の17日間で中隊の30%が脱落。
300キロ行軍したところで補充新兵の脱落者は半数に及んだ。
虎!にまで襲撃された。唯一の救いは満州のように寒くはなかったこと。
南進するほどに温暖になった。

出発地に帰着して、南京へ向かう途中で敗戦の報が。
蒋介石軍は、ジュネーブ条約を守って捕虜虐待はせず。
そこから南京までの復員ではもう食料の略奪は出来ず。
往路で略奪した銀貨で物々交換して食料を入手。
全行程を通じて日本軍は、まるで強盗、ドロボウ軍隊だ。


以前にも書いたが、私が生後3ケ月の時に満州に出征、敗戦でシベリアに抑留され、
4年後に現地で死亡した。
何で日本人が満州に進出したのか?長年の疑問でした。

簡単に言えば、、、
日露戦争で勝ったけど、ロシアは中国に侵攻して巻き上げた「満蒙」つまり満州を
日本に譲っただけだった。「貰ったんだから日本の物だ」と思っていたが、
もともと中国の土地だ。そこには中国人が住んでいてた。

そこに悪名高き「関東軍」を送り込んだ。
さらに「満蒙開拓団」を送り込み、中国人から安値で土地を収奪した。
期待に反して、資源といえば石炭ぐらい、石油は出なかった。辺境の地である。
農業しか利用価値がない。
「満鉄」といっても既存の中国の鉄道を接収しただけのこと。
満鉄の関連事業だけが日本人のビジネス、それも赤字路線。

当時の中国は軍閥だらけで統一されてなかったので、ゲリラ(匪賊)活動で対抗。
その中で関東軍がやりたい放題。「張作霖爆殺」とか、{盧溝橋事件」とか。
その収拾をすべきところを、逆に近衛内閣が、抗日感情を見誤り、拡大させた。
結果、力を付けていた蒋介石軍と全面衝突。
蒋介石軍は毛沢東軍と共闘を組んだので、いずれ強大になった。

一方の日本海軍も「上海事変」を見誤って拡大させた。
こっちも欧米に後押しされた蒋介石軍に圧倒されて日本は大損失、敗退。
それを陸軍の関東軍が押し返すべく、南京まで侵攻。「南京大虐殺」で世界問題に。

その結末が「大陸打通作戦」、、
だが敗戦後の日本では「忘れられた大作戦」となった。

物凄い浪費だ。日本軍というのは日本の国家予算の5倍を消費した。
そして何も残らなかった。

書きかけです。


プロフィール

ゴンベ

Author:ゴンベ
房総の沢、滝探検、ヤブ山探検、地形調査、デインギー(ヨット)などを書いていこうと思っています。
分かりやすいように書いていくつもりですが、もし分かりにくいことがあればコメントをいただければ可能な限り答えます。
読んでいただければ幸いです。

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